諸葛亮の権力基盤はどこにあったのか
【安田】しかし、諸葛亮は劉備の死後に軍権まで握って、蜀を切り回します。一人の中国の政治家として諸葛亮を見た場合、彼の権力基盤はどこにあったのでしょうか。
【渡邉】名士層です。当初、諸葛亮がスカウトしてきたのは、馬謖をはじめとした荊州(現在の湖北省・湖南省)出身者ばかりで、劉備からは嫌がられるわけですが。
【安田】知識人で、さらに地縁や学閥が近い人を連れてくるわけですね。
【渡邉】いや、それだけでは人が足りません。諸葛亮のえらいところは、劉備政権の征服地である益州(現在の四川省)の学者も、政府にどんどん呼んで高い地位につけて、味方を増やしたことです。荊州閥と益州閥を組み合わせた名士社会こそ、諸葛亮の支持基盤でした。
【安田】当時の荊州と益州では言語も違うでしょうし、学閥も異なったでしょう。しかし、諸葛亮からすると、それでもインテリのほうが仲良くできると。
【渡邉】そういうことです。事実、諸葛亮が学んだ荊州学は、神秘主義を排した合理的な儒教。いっぽうで蜀に伝わって発展していた漢の儒教は、予言や神話を信じる古臭い学派(蜀学)。たとえば劉備の皇帝即位を言祝ぐ文章などは、蜀学の学者たちが一生懸命作っているとみられます。
諸葛亮がいなければ邪馬台国はなかった?
【安田】正史の『三国志』「先主伝」を読むと、劉備の即位前に「漢水で皇帝の玉璽が見つかった」といった妙にオカルトな記述があるのですが、このあたりの神秘主義的な表現も蜀学の影響なのでしょう。
【渡邉】諸葛亮は、内心ではそういうものは「アホか」と思っていただろうと思うのですが、うやうやしく認めてみせる腹芸ができた。こういうことで、地縁と学閥が異なる知識人をまとめたんですよ。正史『三国志』の作者・陳寿の師匠である譙周も、諸葛亮による益州閥からの抜擢組です。陳寿ももちろん蜀学の影響のなかにある人ですから、漢水の玉璽のような話を書く。
【安田】仮に諸葛亮が益州の名士層を受け入れていなければ、陳寿は蜀の体制に好意的な感情を持たなかったと思いますから、現在のような形では『三国志』が書かれていないか、そもそも執筆されていない可能性があります。とすると、たとえば魏書の「東夷伝」(いわゆる「魏志倭人伝」)は存在せず、邪馬台国の描写も違っていたかもしれず……。意外な理由で日本の古代史にすら影響が出ていたことでしょう。
【渡邉】そうですね。そもそも、陳寿は『三国志』を歴史書として書いていないと思います。
【安田】どういうことでしょうか?
【渡邉】陳寿が書きたかったのは、蜀に伝わるふたつの予言が成就する過程。すなわち、劉備の即位を示す「益州に天子の気あり」と、魏による蜀(蜀漢)の征服を示す「漢を滅ぼす者は當塗高」という予言です。『三国志』の執筆の動機は、歴史を記すことで蜀学の正しさを明らかにすることだったと思われるのです。