曹操は「無双」しない

【安田】本来は「侠」の人である劉備も、君主になると「文」が求められたのでしょうか。

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撮影=中央公論新社写真部

【渡邉】劉備はがんばったと思います。たとえば彼にとって義弟同然の関羽の字(あざな)は「雲長」ですが、もとは「長生」でした。名前と字は本来、諸葛「亮」(あきらか)と「孔明」(たいへん明らか)のように似た意味である必要がある。関羽の場合、「雲長」は羽と雲だから合いますが、「長生」では名前と字に何の関係もない。つまり、そのくらいの文化資本しかない社会階層の出身だったとみられます。後年、関羽が『春秋左氏伝』を読み、知識人層にライバル心をむき出しにするのは、コンプレックスゆえのことです。

【安田】なるほど。もとの字の「長生」ではただの「長生き希望」で、「関羽」という本名と何の関わりもありません。庶民層の出身だったというのは納得がいきます。

【渡邉】劉備は若いころ、あまり熱心ではないのですが学者の盧植のもとで学んだことがあり、盧植の兄弟弟子には鄭玄という大学者がいた。そこで劉備は諸葛亮に「鄭玄先生はこう言っていたよ」みたいなことを話して、一定の尊敬を得ています。劉備は劉禅への遺言で『漢書』と『韓非子』を読めとも伝えている。上に立つ者としての「文」を示す努力はしているわけです。孫権も息子に『漢書』を学ばせていますしね。

【安田】三国志の君主は本質的に「文」である。つまり、曹操や孫権や劉備が戦場で無双したりはしないのですね。

【渡邉】はい。無双しません。諸葛亮の扇子からビームが出たりもしません。

「意識高い系」の諸葛亮はドライに働く

【安田】諸葛亮をはじめ、荀彧や周瑜らの名士層の人たちは、現代社会に置き換えれば、いわば意識の高いホワイトカラー層です。キャリアアップのため比較的簡単に他社に移りますし、ときには同じ社内の現業労働者よりも、ライバル社のホワイトカラーのほうが話が合うので仲良くできるという。

安田峰俊『「低度」外国人材』(KADOKAWA)
安田峰俊『「低度」外国人材』(KADOKAWA)

【渡邉】そうですね。後漢末~三国時代の名士層とは、自分はいかに生きるか、なぜこの政権に仕えるか、といった自分の行動や判断の正統性を、儒教の経典を的確に引用しつつ、言語で表現できる人たちです。知識人たちは共通言語としての経典があり、孔子が作った儒教が示す理想の社会を共同幻想として持っている。

【安田】「侠」は庶民の共通言語で、儒教はエリートの共通言語ですね。劉備の政権はコアの部分に、庶民的な「侠」の人間関係がありましたが、エリートの諸葛亮はこれとどう付き合っていたのでしょうか。

【渡邉】諸葛亮は、劉備陣営の「侠」の人間関係に入れてもらえていません。彼は後から入ってきた大番頭で、劉備との関係もかなり打算的な関係ではなかったかと思います。諸葛亮が好きな人からは怒られそうですが、史料を読む限りはそう見える。

【安田】横山光輝の『三国志』では、諸葛亮はすぐ「わが君!」とさめざめと泣きますが、実際はそんなに湿っぽくなかった。有名な『出師表(すいしのひょう)』も、後世に他の知識人に読んでもらって褒められるための自己演出の匂いを感じなくもありません。

【渡邉】関羽・張飛が死んだあと、怒りに燃えた劉備が政治判断としては誤っている仇討ちのため呉に侵攻するのを、諸葛亮は止められないんです。『三国志演義』や、それをベースにした横山『三国志』では聞く耳くらいは持ってもらっていますが、実際は「侠」の仲間ではないので、聞く耳も持たれなかったとみられる。当時、劉備の行動に苦言を呈することができたのは、「侠」の人間関係の内部にいる趙雲だけでした。