コロナ禍で味わいにくくなった「バル的開放感」がある

各業界関係者の生の声を聴くこともできる。先日、新聞関係者がメディアのこれからについて議論するroomをのぞいていたら、突然、スピーカーになってしまった。友人・知人に声をかけたところ、業界内のディープな話がダダ漏れになっていることに興味をもっていた。

コロナ禍で会食が減っているなか、マスクをはずして思い切り話すことができる。お酒を飲みながらでも、お風呂に入りながらでもばれない(たまに、湯船のお湯がはねる音が聴こえるが)。実はこのバル的開放感に皆、飢えていたのではないか。

部屋の開示範囲を選ぶことができるので、限られたメンバーで内緒の話をすることができる。現状のTwitterは、荒野に近い。政治的スタンスの対立が起こる。趣味に関するものですらそうだ。無邪気なツイートやリツイートについて絡まれることもある(もちろん、ツイート、リツイートは友人、知人だけが見ているわけではなく、どう解釈されるかわからないことなどを理解しておくべきではある)。タイムラインを見ているだけで気持ちが落ちることすらある。音声による会話という温かみのあるコミュニケーションで本音の議論をすることは貴重である。

既存のSNSに感じていたモヤモヤを見事に解決

Twitter上でのコミュニケーションに顕著であるが「SNSで下手なことを言えない」という萎縮の空気がないか。この件は、やや丁寧に説明しなくてはならない。何か言ったらセクハラ、パワハラと言われるのではないか、今の規範に合致していないとたたかれるのではないかという話をしているわけではない。前提として、どの時代であれ、公共の場で何かを言う際には、ルールとマナーがあるし、その発言が誰かを傷つけないかは意識するべきである。「これくらいは当たり前だ」「昔はそういう話をしていた」という話は言い訳にならないし、容認するべきではない。

とはいえ、世の中の規範と、自身の想いはイコールではない。例えば、新型コロナウイルスショックに関して、緊急事態宣言やそれによる行動の制限や自粛について社会のルールを守っていたとしても、個人的な感情は必ずしもイコールではない。「守らざるを得ないけれど、困っている。でも人前では言えない」という意見にしろ、逆に「自分はこうあるべきだと思う。守っていない人はおかしいのではないか」という意見にしろ、人前では言いにくいが、気心知れた、価値観が合う仲間と想いを共有する場にはなる。

というわけで、クラブハウスはそのレア感、制限・限定などのルールと相まって、絶妙に今の時代とあっていた。コロナによる影響も大きいが、既存のSNSに感じていたモヤモヤを見事に解決しているとも言える。