「ほんもの」には、多少の歯応えがある
では、どうしたらほんものと出会えるのか。
ふた通りの方法があります。
ひとつは、古典(あるアイデアを最初に考えた誰かが、自分で書いた本)を読むことです。外国語の場合は、その翻訳書でもよろしい。それでも、多くの場合、古典そのものを読むのは、かなりハードルが高い。
そこで、もうひとつは、古典をしっかり勉強した人が書いた、まっとうな解説書を読むこと。偽物でない、まっとうな解説書の探し方は、本書の第3章で説明しています。
これなら、古典よりもとっつきやすい。とは言え、それなりに歯ごたえがあるかもしれない。(歯ごたえのなさすぎる本は、いちばん大事なところが抜けていて、偽物の可能性が高いから、要注意。)
偽物は、ほんものの顔をしていますから、見分けるのは困難。ほんものに触れると、ああ、さっきのは偽物だった、とわかる。ほんものに触れていくと、だんだん偽物を見分ける力がつきます。
ほんものに触れようと思ったら、多少の歯ごたえは覚悟しなくてはいけない。
では、その難しさとどうつきあうか。
すべての本は現実社会の「攻略本」
私たちは、複雑な現実を生きています。
たとえば、経済学の本のほんものは、たしかに難解で複雑です。でも、現実の経済のほうが、もっとずっと難解で複雑です。
経済の本は、3時間や5時間で読めるかもしれない。でも、いきなり現実の経済を読み解いてしまうなんて、不可能に近い。
だから、経済の本を読むんです。ほんものの経済の本であっても、現実の経済よりは簡単だ。しっかり読めばわかるように、書いてくれてはいる。その内容を踏まえて、現実の経済を眺めたほうが、手っ取り早くその内実をつかむことができる。
つまり、書物は、現実社会の「攻略本」みたいなものなんです。複雑なゲームには必ず「攻略本」があるでしょう? ゲームを上手にクリアしたい人は、お金と時間と労力をかけて、攻略本を読む。ちょっと大変でも、そうする。なぜかと言えば、そうしたほうが結局、手っとり早くクリアできるからだ。
古典や、古典のよい解説書を読むのも、似たようなもの。読むのにある程度、労力も時間もかかるけれど、読まないよりは読んだほうが、ずっとこの現実世界のことが読み解けるようになるのです。