どんなものも「バイアス」から無縁ではない。社会学者の橋爪大三郎氏は「たとえば朝日新聞は、戦前は、戦争行け行けドンドンの新聞だった。戦後、これを深く反省して、その結果、何かにつけ政府に噛み付くようになった。これもバイアスだ」という――。

※本稿は、橋爪大三郎『人間にとって教養とはなにか』(SB新書)の一部を再編集したものです。

ジャーナリズム
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教養は「ルーティン以外の仕事」の道しるべ

たとえば、多くのひとは会社勤めをしている。

会社では日々、さまざまなことが行なわれている。ルーティンワークも多い。けれど問題は、ルーティン(決まったパターン)でない仕事をどうするか。

どうしたら売り上げが伸びるか、取引先とうまく付き合えるか、競合他社に勝てるか、社内のマネジメントがうまくいくか、……などなど、ルーティンに収まらない問題に、日々直面しているはずです。

こうした問題には絶対的な正解がない。正解がないから、学校で教わったことだけでは解決できない。まさに教養の出番ですね。

さて、ここでひとつ問題が生じる。

それは、教養には、明確な「因果関係」が存在しないということです。

教養とは、決まった目的があって、身につけるものではない、と言ってもいい。

「パワポの本」と違って因果関係がない

たとえば、パワーポイントで資料を作成する技術を身につけたいなら、そのことが書いてある本を読めばいい。「パワーポイントで資料を作れるようになる」という目的で、そのやり方が書いてある本を読む。やり方がわかるので(因)、できるようになる(果)。因果関係が明確ですね。

ところが教養には、こうした明確な目的(因果関係)がない。売り上げを伸ばすのに役立つ教養、取引先とうまく付き合うのに役立つ教養、競合他社に勝つのに役立つ教養、社内のマネジメントをうまくするのに役立つ教養、なんてものは存在しないんです。

いや、本当は存在するんだけど、パワーポイントの実用書ほど、身につけたら(因)、できる(果)、という因果関係が明確でないのです。問題が解決したら、何と何が役に立った、と因果関係がはっきりする。でもそれは、あとからわかるので、問題が解決するまでは、何が役に立つかわからない。暗中模索です。

じゃあ、どうしたらいい?

明確な目的意識など持たずに、広く教養に触れるしかありません。

教養という森は広大です。何しろ教養とは「今まで人間が考えてきたことのすべて」なんですから。

したがって、何か問題が起こってからあわてて教養を身につけようとしても手遅れ。

いつ役に立つのかわからないものを、いつか役立つ日のために、日頃から少しずつ蓄積していくのです。