【米国】新手段は慎重に試し、出口問題も誠実に説明

Fedは、バーナンキFRB(連邦準備制度理事会)議長の下で、リーマン・ショックに遭遇した。経済学者でもある同議長はFRB理事だった2000年代前半、海の向こうでわが国がバブル崩壊による銀行危機に直面し、日銀が結果的には欧米各国よりも約10年先行する形で“ゼロ金利制約”に直面し、苦慮している様子を注視していた。

2004年には共著で論文を執筆し、“ゼロ金利制約”のもとで考えられる金融政策運営の3つのオプション(新たな手段)を提言していた。

①政策金利を将来にわたって超低水準で据え置くことをあらかじめ約束する「フォワード・ガイダンス(以下FG)」
②中央銀行のバランス・シート(以下BS)上で資産構成(短期債と長期債)を入れ替える「オペレーション・ツイスト」)
③中央銀行の資産買い入れによって、マネタリーベース(中銀が民間銀行経由で供給する総資金供給量)の規模を拡大させる「量的緩和」

これらは、Fedが金融危機以降に自らも“ゼロ金利制約”の当事者となって、新たな金融政策運営を展開していくうえでの理論的なバックボーンとなった。

もっとも、バーナンキ議長率いるFedは、議長自らが考案した理論を現実の効果のほどを無視して強行するようなことは決してしなかった。経済学や金融論は社会科学であるゆえ、机上で構築した理論が、現実の世界でも通用するかどうかをあらかじめ実験室内で実験して、その妥当性を確認することができる自然科学とは異なる筋合いのものである。新たな理論に基づく政策手段の効果のほどは、いずれかの中銀が先行して実際に導入した結果から判断するよりほかにない。

Fedは“ゼロ金利制約”に初めて直面した2008年末、この点に忠実に、バーナンキ議長が論文で提唱した3つの新たな手段のうち、唯一の先行例として日銀が2001~06年に実施していた「量的緩和」の効果を徹底的に検証した。「量的緩和」政策導入当初、日銀自身やFRB理事時代のバーナンキ氏は実体経済へのプラス効果を期待していたが、それは認められなかった、という事実を素直に受け止めたうえで、「量的緩和」の部分を根本から見直した。

そして、日銀のようにマネタリーベースの増加を金融政策の目標に据えることは決してせず、長期金利の上昇抑制による実体経済の下支えを企図する「大規模な資産買い入れ(LSAP)」にその名称も改め、Fed自身が「量的緩和」と称することは決してなかった。他の「FG」や「オペレーション・ツイスト」とともに、効果が未知の新たな金融政策手段として期限を区切って試行し、そのつど効果を確認してから次の政策展開を虚心坦懐に考える、という形で危機後の政策運営を展開していったのである。

この点は、黒田総裁が2013年春の日銀総裁就任前に国会において、「白川総裁時代までは、日銀の金融政策が不十分だったから、わが国は長年、デフレから脱却できなかった」と述べ(※2)、日銀自身の2000年代の量的緩和について、日銀自身による分析を含めてすでに明らかになっていた結果を謙虚に受け止めようとせず、マネタリーベースの拡大を目標に据える金融政策運営を強行したのとは、極めて対照的な政策運営であった、と言えるだろう。