「自粛に加えて、謝罪も必要だ」という声は当然あるだろう。倫理違反をしたのだから、「私は反省していて、もう今後は同じようなことはしない」という意思表明と謝罪があってこそテレビへの復帰が許されるべき、という考え方はうなずける。

それでは渡部さんは謝罪をしていないか、というとすでに週刊文春のインタビュー取材に答え、一定の経緯を明らかにして謝罪しているのではないだろうか。妻である佐々木希さんへの謝罪や、関係した女性へも関係者を通じてではあるが謝罪は済んでいるようだ。

関係者への謝罪も済み、雑誌という媒体で世間への経緯の説明と謝罪も済んでいる。そのうえで番組収録に臨んだのだろう。収録したのは、日本テレビの大みそか特番「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」と報じられている。収録が事実だとしても、「会見を開いていないのに番組収録に参加したとすれば順序が違う」というのはどういう理屈なのだろうか。

芸能マスコミの勝手な理屈、エゴ

渡部さんは3日の会見で、「文春の取材に応じれば会見を開かなくても良いと思っていた。考えが甘かった」と答えているが、これは別に甘い考えではない。公の刊行物で経緯を明らかにして謝罪していれば、一定の説明責任と謝罪は果たしたというべきではないか。

「それで済むと思ったら大間違いだ」と詰め寄る芸能マスコミの理屈の方が私にはよく分からない。「週刊文春だけじゃなくて、うちの取材にも応じろよ。俺の質問にも答えろよ。じゃなきゃ許さんぞ」というならむしろそれはメディア側の勝手な理屈で、エゴなのではないか。

私は30年近くテレビ業界にいて、主に報道番組関係の仕事をしてきたが、私の考えでは記者会見は「会見する人物の主張や言葉、心境を聞く場」であって「社会的制裁を与える場」ではない。謝罪の言葉を述べてもらうことは大切だろうが、社会的制裁を与えるという目的で「人をボコボコにする私刑の場」になってはならない。Twitterが同情論であふれたのは、レポーターたちが、つまり芸能マスコミが「私刑執行人」に見えたからに他ならず、それはメディア側が大いに反省すべきことなのではないか。

マイクとレコーダーを手にした女性リポーター
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しかも、記事の論理があまりに内向きなのではないか。「それでは謝罪になっていない。順序が違う」とか「業界の論理では許されない」「テレビ復帰は難しいだろう」などということは、あくまでも「自分たちの心境について」語っているにすぎず、そんなことを大声で主張すること自体が「芸能界・メディア業界というところは古い世界で、世間の常識とはかけ離れています」と自らの恥を世間様にさらしていることになりはしないだろうか。