1560~1619。幼名与六。23歳で山城守を称し、越後の戦国大名上杉景勝の執政となる。関ヶ原の戦で減封。米沢藩上杉氏の執政としても藩政確立の総指揮にあたった。朝鮮出征時、漢籍を収集。出版事業「直江版」をおこす。
愛の話をしましょう。
直江兼続が兜の前立てにあしらっていた「愛」です。
「愛」にはどういう意味が込められていたのか。大きく分けて二説、「愛宕大権現説」と「愛民説」があります。
信長の手法には愛のかけらもない
根強いほうは「愛宕大権現説」です。
戦の神様から一字を採った。兼続が仕えた上杉謙信の「毘」の旗は、毘沙門天の頭文字です。兼続も同様にしたと。いわば「軍神説」で、戦国時代を生き抜く武将ですから合理的な説といえましょう。若い研究者の多くは軍神説を取っているようです。
もう一方の「愛民説」は、愛の前立て兜のある山形県の米沢の地で代々語り伝えられてきたものです。民を愛するという、なにやらロマンチックで、「軍神説」に比べるとやや合理性に欠けます。本当かな、とも思います。
兜の「愛」はどちらの説に拠るのでしょう。それによって主人公の人物像が変わってきますから、小説を書くにあたってずいぶんと悩みました。
そんなとき上杉謙信の語録に行き当たり、愛という言葉が出てきました。
大将はもちろん戦に強くなくてはいけないが、それだけでは立派な大将とは言えない。儒教の「五常の徳」、すなわち「仁・義・礼・智・信」を大切にしてこその大将なんだと。
さらに謙信は言葉を続け、慈愛をもって衆人を憐れまねばならないと言っています。弱い人たちがどうしたら安心して暮らせるのか。ただ偉そうにふんぞり返っているのではなく、衆人のことを考えるのが大将だ。それが「愛」なんだと。この場合の「愛」は「仁」という言葉とほとんど同じ意味でしょう。
この資料に触れたとき、「愛民説」はなにもロマンチックなだけの伝説ではないぞ、ここに真実があるのではないかと思いました。今まで「軍神説」だった気持ちが、ぐぐっと「愛民説」に傾いたのです。実は、すでに歴史小説の大先輩である海音寺潮五郎さんが「愛民説」を唱えていたんですが。
「軍神説」を支持する若い人たちの中には、「信長の野望」(パソコンゲーム)を熱心に遊んで育った世代も多いようです。そこには痛快な改革を行った信長讃美があるのでしょう。漢学的な背景など関係ない。武力こそがすべてだと。たしかに信長はイノベーターだし、絶頂期に歴史の舞台から消え去ったことも根強い人気の要因です。
信長の手法は、とにかく結果を出せばいい、早ければ早いほどいい、というものです。結果を出せなければ理由の如何にかかわらず、すぐに追放する。進言などには一切耳を貸さない。それどころか言葉を返すだけで飛ばされてしまう。家臣は恐れをなして、ひたすら平伏するしかありません。有益な提案があったとしても口を閉ざしてしまう。これでは組織は潰れます。なにやら現代の外資系企業の姿勢にも似ていますね。
そして、これが一番の問題点だと思うのですが、信長は敵の城を滅ぼしたとき、女子供、老人まで惨殺しているわけです。そこには愛のかけらもありません。
信長の話が出たところで、「本能寺の変」の話に少し触れましょう。