児玉さんの話で、韓国ドラマとの違いが随分明らかになってきた気がする。そして、そこには韓国ドラマが元々「世界を見て」制作されているのに対して、『半沢直樹』など日本のドラマが「日本国内を見て」制作されているという違いもあるような気がする。
そもそも日本も韓国も「ハイコンテクストの国」つまり「文脈や背景が共通認識となっていることを前提としたコミュニケーションの国」であるという共通点があると思う。「お約束」や「言わずもがな」を重視する側面が強く、外国人にはなかなか理解し難い社会であるという意味では、非常に似ている部分があると思う。
しかし、韓国はそもそも人口およそ5000万人で、コンテンツは外国でヒットするのを前提としないとなかなか利益を上げられない。国も「コンテンツ振興院」などの機関を設け、世界各国で韓国のコンテンツを全面的にバックアップする体勢をとっていることなども有名だ。韓国のコンテンツは、たとえ韓国という国の文化を知らなくても楽しめるように「人類共通のテーマ」を意識的に掘り下げて描いているような気がするのだ。
日本で受けても世界で評価されるとは限らない
現に、私は大学でテレビ制作についての授業も持っているが、その授業を受けているメディア志望の学生たちは口をそろえたように韓国ドラマに高い関心を示している。「日本のドラマよりも、韓国のドラマの方が俳優の演技も、撮影も優れている気がする。特に脚本は韓国の方が素晴らしい」という感想を口にする学生もいた。
そういう意味では、日本ドラマの低調さを、『半沢直樹』は分かりやすい演出論とテンポの良さで打ち破り、世界的に好評を博したという意味で特筆すべき成功であると言えるのだろう。しかし、ヨーロッパの映画・テレビに詳しい、前出の津田プロデューサーはこう指摘する。
「『半沢直樹』は確かに分かりやすいのですが、映像作品として高みを目指しているとは思えません。単純化して分かりやすく作ったら、ヨーロッパでは『負け』です。日本のドラマにも、もっと人としての葛藤を描く、深い脚本が必要ではないでしょうか。このままでは『日本らしくて面白い』という評価は得られても、『素晴らしいドラマだ』という評価は世界では得られないと思います」
『半沢直樹』がアジア地域をはじめとして世界的な大ヒットとなったのは「あの優れた原作と、豪華で一流な出演者、そして時代の空気に合った爽快なストーリー」がそろい、しかもさまざまな環境と幸運に恵まれたからであることは間違いない。
しかし、『半沢直樹』は演出論としては決して「王道ではない」という指摘があるのも事実だ。
もし「柳の下の2匹目、3匹目のドジョウ」を狙って、『半沢直樹』の模倣を安易に繰り返すような風潮になってしまっては、日本のドラマにとってあまり良くない未来が待ち受けているのではないか、と僭越ながら危惧してしまうのである。