そもそも憲法上の「学問の自由」とは何なのか
こうした一連の事態の経緯をふまえて、今回の任命拒否事件と「学問の自由」との関係について、あらためて考え直してみたい。
まず指摘しなければならない最も重要な点は、「学問の自由」は、日本国憲法によって全ての国民に等しく保障された基本的人権の一つだ、ということである。
「学問の自由」は、思想・良心・信教・表現・職業選択・婚姻の自由と並ぶ「自由権」の一つである。したがって憲法によって保障されている「学問の自由」の「学問」は、学者が大学で研究すること、といった意味での「学問」のことではない。一人ひとりの国民が、人間として持つ知的探求にもとづいて行う精神的活動のことだ。
大学人だけでなく、民間研究者にも「学問の自由」が保障されているだけではない。普通の一般の国民の場合であっても、知的欲求に基づいて行う精神的活動に対して、「学問の自由」という憲法上の保障が与えられている。
学者の超然的地位を保障することが「学問の自由」ではない
いわゆる「大学の自治」という原則は、「学問の自由」を確保するために、派生的に正当化されるようになったものでしかない。学者の地位の保障のようなことは、「学問の自由」とは関係がない。もし学者の超然的な地位を認めることが「学問の自由」だなどという誤解が広まったら、むしろ日本国憲法の理念は危機にさらされるだろう。
憲法上の規定を拡大解釈して、特定業界の特権を正当化するために濫用する行為は、戦前の軍部指導者層が「統帥権干犯」を主張して軍部の特権的地位を主張したのと同じで、憲法秩序を破壊し、社会を混乱させる危険な行為だ。
一人ひとりの個人の人権として保障されている「学問の自由」から、「大学の自治」などの制度的保障の考え方が派生的に生まれてくる理由は、学問の自由を保障するためには、学問のために存在している制度の保障が必要だという考えによる。つまり「大学の自治」という原則ですら、「学問の自由」を保障するためのいわば手段として、認められているにすぎないのである。
大学の研究者に認められているのは、自分たちだけが享受する特別な権利などではない。憲法が保障しているのは、全ての国民の「学問の自由」の権利であって、大学の研究者の特別な地位などではない。
「学問の自由」を理由にして何らかの組織が特別な制度的保障を受けるのは、その組織が基本的人権としての「学問の自由」の保障に、不可欠の役割を担っていると認められる場合だけだ。そうでなければ、認められない。