リベラルは保守の知恵に学んだほうがいい
倉持さんは本書を通じて、弱い個人を前提とした新たなリベラリズムで人々と関係性を結び、世界を作り直そうと呼びかける。いわば、リベラルは保守の知恵に学んだほうがいいんじゃないかということだろう。本書はナショナリズムに短所や潜在的な危険を見つつも、それを否定はしない。そして、下からの「いきいきしたコミュニティ」が資本の論理やグローバル化によって壊されていった過程を惜しみ、その再興に期待を抱く。
こうしたリベラルに対する問題提起自体は新しいものではない。冷戦後にはイスラエルの識者からリベラル・ナショナリズムという概念が提示されたし、欧州では移民の増加による社会的影響が感じられだした頃から土着の文化や国民国家性を見直す風潮が生じた。そもそも、リベラルはすでに久しく「純粋な意味」でのリベラルではない。そして、せんじ詰めれば、初めから純粋なリベラルなどという概念は成立していないのだ、という問題にぶち当たってしまう。
とはいえ、本書の世界観はリベラル修正主義のひとつの到達点を示しているだろう。群れるためだけの理念なきリベラルに対する反発。権力の融通無碍さに対する嫌悪と無力感。先進国の中産階級が抱くグローバリゼーションへの反感。しかしそうした総論よりも、本書の面白さは著者自身が現場で感じた「なんでリベラルはこうじゃないの!」という苛立ちにある。著者世代のようなリベラルが「法律」というツールを活かしつつ、デジタル時代の個人情報の在り方や新たな人権の概念、環境問題などに活動のスコープを広げ、また憲法論議に正面から取り組むことには大いに期待したい。
リベラルがこうした課題を保守よりも先に見つけ、本気で取り組み、成長をもたらす施策と結び付けることができたとき、リベラルにとっての明るい未来がやってくるのではないかと思う。