挑戦すると決めれば年齢は関係ない
最初に契約してくれたのは知り合いのピート・ハーマンですが、以後は各地のレストランに飛び込んではフライドチキンの素晴らしさを紹介するほかありませんでした。寝るのは車の中、食べるのは試作品のフライドチキンだけという生活でしたが、こうして1000軒を超えるレストランを訪ね歩いた結果、レストラン売却から5年後の1960年にはアメリカとカナダで400店ものフランチャイズ網を築き上げることができたのです。
自分のフライドチキンへの絶対の信頼と、60代も半ばで不可抗力により店を失ってもそこで自分の物語にピリオドを打たず、「自分にできることを生涯やり続ける」という決意こそが、世界中にKFCを広げる原動力となったのです。挑戦すると決めた人に、年齢は関係ありません。
自宅以外の全財産を失った安藤百福
(安藤百福『魔法のラーメン発明物語』日本経済新聞社)
チキンラーメンやカップヌードルを開発した安藤百福さんもまた、遅咲きの成功者です。1910年生まれの安藤さんは義務教育を終えるとすぐに呉服屋を営む祖父の手伝いを始め、22歳で独立して台湾に「東洋莫大小(メリヤス)」という会社を設立、大成功を収めています。終戦後は製塩業なども手がけました。
しかし、連合国軍総司令部(GHQ)に脱税の疑いをかけられたことで2年もの間、東京拘置所に収監されるという苦難を味わっています。手がけていた事業のすべてを整理しますが、そんな安藤さんのところに来たのが、新しくできる信用組合の理事長になってほしいという依頼でした。
金融業務は安藤さんにとっては未知の分野です。本来なら断るべきところを、「名前だけでも」といわれて理事長に就任しましたが、しばらくして破綻してしまい、安藤さんは自宅以外すべての財産を失うことになったのです。
自宅庭の小さな小屋で試行錯誤を繰り返す
不慣れなことに安易に手を出せば、失敗しがちです。あとには「身を焦がすような後悔だけ」が残りますが、それまで幾度もの難局を乗り越えてきた安藤さんは「失ったのは財産だけ」と開き直り、戦後、闇市で大勢の人がラーメンを食べるために行列をつくっている姿を思い出し、ラーメンの開発に乗り出しました。
当時の安藤さんにはお金もなければ部下もいません。食品開発の経験もありませんでしたが、自宅の庭につくった小さな小屋に朝は5時から、夜は1時、2時までこもってひたすらに試行錯誤を繰り返しました。
失敗を繰り返しながらも、少しずつ前進している、という実感だけが支えでした。1年後、日本初の即席めん「チキンラーメン」の開発に成功、日清食品を創業します。48歳の時でした。苦労は報われて日本で爆発的にヒットしました。その後、安藤さんは60歳を過ぎてカップラーメンも開発します。
自らの判断で全財産を失ったことを契機に、世界の食文化に革命を起こした安藤さんですが、挑戦の道のりにおける本人の前進の実感は「少しずつ」でした。懸命に、夢中で取り組んでいる最中は、その道がどれほど大きな成果につながっているか、案外わからないものなのかもしれません。そう考えると、勇気がわきませんか?