「ハロー」とあいさつされることはあるが…
取材のネタ集めのために質問される方々のご期待に添えず申し訳ないのですが、私はこれまで、そのような経験をしたことは一度もありません。とてもすてきな方々に囲まれて育ってきました。
同じく、「差別をされた経験」についても尋ねられることがありますが、こちらについても答えは「No」です。20年以上の日本生活の中で、「差別」によって不当な不利益を被ったことはありません。
もっとも、「差別」というのは難しい言葉です。日常生活では「『区別』は許されるが『差別』は許されない」という言説を聞くこともありますが、そこでの言葉遣いは法律学の世界のものとは異なります。法律学の世界では、「合理的な差別」か「不合理な差別」かで、許されるか許されないかの境界線が引かれます。
例えば観光地を訪れた際、皆さんには「こんにちは」とあいさつしている係員の方が、私に対してだけ「ハロー」と英語であいさつしてくるような事態にはしばしば遭遇します。ただ、これは係員の方の経験則に基づいて職務上の便宜でそのように対応しているだけで、別にそれが許されない「不合理な差別」というわけではありません。それによって入場料が高くなるわけでもないですし、本来受けられるはずのサービスが受けられなくなるわけでもありません。
また、現在私は、ニューヨーク州弁護士の資格取得のため、アメリカのロースクール留学を検討しているのですが、日本国内で募集されている奨学金の多くは、募集要項に「日本国籍を保有していること」と書かれています。
このような条件を見たとき、自分が応募できないことを残念には思いますが、「不合理な差別」とは思いません。奨学金を支給する人には、どのような人に奨学金を支給するかを選択する権利があるからです。それを否定してしまうのは、日本社会の根底にある権利・自由の否定につながってしまうと思います。
最高裁の判決の大半は合理的なもの
このように、私はこれまでの人生の中で、「不合理な差別」を受けてそれによって不利益を被ったというような経験はないのです。弁護士として刑事弁護を担当した被疑者・被告人の方も含め、私がロシア出身だからということで偏見を持たれたりしたこともありません。
もちろん、例えば現在の新型コロナウイルスに関する水際措置としての外国籍者の一律上陸拒否問題等、潜在的に問題となりうる場面は存在します。しかし、日本には公正な裁判所が存在しています。潜在的な問題が顕在化したときには、私は法律家として国の仕組みの中でその問題に立ち向かうことができるという意識を抱いているので、潜在的な問題を過度に恐れることもありません。
裁判所自体が信頼できないという意見を聞くこともありますが、多くの判決文を読んだ私の考えるところ、最高裁の判決の大半は、判決文のロジックを丁寧に追っていくと、合理的なものが多いように思います。日本国憲法で定められた権力分立の制約の下で裁判所の権限を及ぼしきれず、最終的な問題解決が国会や政府に委ねられる問題もありますが、裁判所の権限の範囲内においては、知性と理性に基づいた公正な裁判が行われているように思います。
日本はメディアで誇張して伝えられるような悪い国では決してないのです。
むしろ、私は日本ほどすてきで住みやすい国は他に存在しないと考えています。