また正月の雑煮に鶏肉を入れ、味噌仕立てにするのも、郷里の流儀でした。また、私は中年期に達するまで、家の宗旨に無関心でした。しかし、ときたま、子どものころに両親が仏壇の前で、何か唱えているのを思い出すことがありました。

相続は両親からだけ、とは限らない

記憶の底をたどってみると、「キーミョームーリョージューニョーラーイ」という呪文のような文句が浮かびあがってきます。これが『正信偈』という、真宗門徒の唱えるお勤めの言葉であることを知ったのも、かなりあとになってからのことです。親鸞がまとめ、蓮如が定めた真宗の作法の相続が忘れられていたのです。

人との挨拶の仕方、お礼のいい方、そのほか数えきれないほどのものを私は両親から相続しているのですが、残念ながら綺麗な魚の食べ方は相続していませんでした。

以前、韓国の地方の駅のキオスクで買物をして、売り子の娘さんが釣り銭を差し出すときに、右手の肘の下にそっと左手をそえて渡してくれたのが、すごく優雅に感じられたことがありました。

韓国で昔、長袖の服を着ていたころの名残りでしょうか。家というより、社会から相続した身振りだったのかもしれません。親や先輩からだけとは限りません。私たちは、社会からも、見えないさまざまなものを相続しているのです。

後世に引き継ぐべき災害の記憶

相続には、個人から個人に相続されるものだけでなく、文化や風習のように集団から集団への相続などいろいろあります。いずれも、絶やしてはならない「こころの相続」と言えます。

先日、巨大台風が日本を襲い、浸水や河川の氾濫があちこちで起きました。私は、もう半世紀以上前の昭和36年に、長野県の南部、伊那谷を襲った大災害のことを、月刊誌のルポルタージュに書いたことがあります。俗に「三六災害」と呼ばれるものです。

天竜川の氾濫により、当時、日本三大桑園の一つと言われた桑畑もほぼ壊滅して砂漠になり、集落はゴーストタウン化して、上流では土砂崩れや鉄砲水で、多くの死者も出た大災害でした。

この「暴れ天竜」と言われる川の異名そのままの災害の1年後、雑誌にルポを書くために、国鉄(現JR)飯田線の川路という小さな駅に降り立ったのです。この取材のとき、被災者がお年寄りから、「谷筋に家を建てるな」と言われていたのに、と、悔やんでいたことを思い出しました。