「生き方」=「習慣」が定まっていない

私は、それは「これからの生き方」が定まっていないこと、だと最近思うようになりました。

ここでいう、生き方、それは価値観を体現した「習慣」そのものを指します。習慣とは、日々の連続した、時間の使い方を指しており、価値観とは自分の人生にとって大事な要素を強く優先順位づけしたものです。この「生き方」は、必ずしも、仕事をどう頑張るか、ということではありません。

たとえば、著者の私自身は仕事を愛していて、楽しい日々を30代で過ごしていますが、すべての人にとって仕事が最優先であるべきだとは全く思いません。むしろ、多くの人にとって仕事とは人生のごくごく一部ですし、すべてではないこともよく理解しています。あるいは、これまで散々述べてきたように、価値観なんてものはたくさんあり、良し悪しなど存在しません。100%そうです。

では何が問題なのか、というと、それは自分の価値観を明確に理解していないがゆえに、「これからの」自分の人生の生き方を決めていないことだと思います。

阪神・淡路大震災で見た「2つのコンビニ」

「これからの生き方」、これを考えるのはとても面倒くさいことです。怖いことです。何より答えが見えない分、先延ばしにしたくなるテーマです。ただ、今の世の中では間違いなく必要になっているテーマだと私は思っています。

私は小さい頃、兵庫県西宮市で育ち、阪神・淡路大震災を経験しました。まだ小学校低学年だったため、明確に記憶に残っていることはそれほど多くはありません。ですが、とてつもなく鮮明に覚えていることが少しだけあります。

一つは、自宅の近くにあった、コンビニの話です。

私たちが住んでいた地域は、震源地の近くだったということもあり、震災直後、ガスも電気も水道もすべて止まり、しばらく便利とは言えない生活が続きました。交通網も十分ではないなかで、震災後すぐに、家の近くには特徴的な2つのコンビニエンスストアがありました。一つのコンビニでは、震災後、インフラが止まると急に、商品の金額をべらぼうに釣り上げはじめました。当然、私たちは、物資が足りておらず、十分に火や水が使えない状態なので、菓子パンや、おにぎり、非常食といったものの需要が大きくなります。おそらく、店舗の店長は、それを見越して利益を出そうとしたのでしょう。だから値段を引き上げたようでした。私たちは、なんともいえない感覚を覚えたのを記憶しています。