妻の親族との折り合いがとても悪かった

家族とはこうあるべきだ――。

家族と一緒に暮らしていたとき、僕は自分の中に刷り込まれたそんな考え方にうんざりしていた。同じように感じている人は案外多いんじゃないか。

家庭生活を円満に維持するには、結婚して夫婦になって、共に暮らすことが当たり前だとされる。いや、当たり前というよりも、少なくともそんなふうに思い込まされる。でも、その在り方が本当の意味で僕たちを幸せにしているのだろうか。

僕は義理の母や妻の親族との折り合いがとても悪かった。中でも義母とはとくに上手く関係を築けなかった。

真面目で厳格な家庭を切り盛りし、自身も堅い仕事に就いている義母は、格闘技選手というある意味、マイノリティーでフリーな僕の商売や、一般常識から乖離した僕の考え方に懐疑的だったと思う。

格闘技の仕事をして稼いだお金で家族を養っていたのに、義母からは自分のことを評価されていないように感じた。

その理由はいくつかある。

僕は親族との付き合いが面倒で、意味がないものと捉えていた。多くの人は親戚付き合いをつまらないなと思っても、「年に1、2度のイベントごとだから仕方ない。参加するか」となっているのではないか。

でも、僕は自分が「無意味」だと思ったことはやれない性分だ。

結婚してしばらくしてから、親族との集まりに僕は顔を出さなくなった。そのことをよく思っていなかったようだし、それに対して僕が持論を展開しようものなら、「お前は物事を損得で考えすぎる。最低なヤツだ」とますます怒られる始末……。

妻側の親族はさらに、僕が自分でも認めている不完全さを「良くないもの」として捉えていた。僕としては人間の不完全さを美しいと思うのだけれど、そのことをまったく理解してくれない。

そもそも「グレーなんて許さない。白黒はっきり付けたいし、自分たちと家族になる者は人格者であるべきだ」という思い、というより条件のようなものがあったのだろう。

でも、僕はどう転んでも彼らが好むような、たとえるなら、現役時代に数々の栄光を手にして、今や全日本柔道男子監督にまでなった井上康生さんみたいな「できた人」にはなれなかった。むしろ僕は、北京五輪金メダリストながら柔道から総合格闘技に転進し紆余曲折している石井慧さんのほうに共感を覚える。

都合のいいときにだけ会える居心地のよさ

家庭でも、その単位をもう少し大きくした親族の中にいても、散々ダメ出しの連続で、感覚の合わなさに僕は本当に苦しんだ。感性の違いすぎる相手と親族になるのはきつい。問題を解決に持っていこうとしても、議論すら成立しなかったから、僕は彼らとの対話から逃げた。話し合いができないのはしんどい。

同居する家族、親族たちとの関係性に苦悩した僕は、ゆるやかな関係性を求めるようになっていった。それが「ファミリー」への傾倒の始まりだ。

いつも距離感が近い家族に対しては、距離が詰まりすぎているせいで甘えが出て、結果的に攻撃し合ってしまう。

僕は家族と生きてみて、距離感を保つこと、つまり「距離思考」の重要性を実感した。さらに、結婚するとほぼもれなく付いてくる親族との関係も面倒だし、感覚が合わなければとことん厄介だということも、改めてよくわかった。

だからこそ、ファミリーのすばらしさを痛感する。一定の距離感を保つことができて、言葉は悪いかもしれないけど、お互いにとって都合のいいときにだけ会えるファミリーの居心地のよさといったらない。