老いてからの生き甲斐は自分で見つけるしかない

さて、私にはものを書くという生き甲斐があると言いました。「作家ではない自分にはどんな生き甲斐があるんだろう」と悩む人もいるでしょう。結局は自分で見つけるしかないのですが、その気になって探してみれば、身の回りにもたくさんあるはずです。極端な話、野良犬を拾ってきて育てるのも生き甲斐になるかもしれません。

いろいろなところに共感の種はあるのです。それを自分の手でつかみ取ることです。そうした行動をせず、くよくよしながら死んでしまったらどうにもなりません。

私のことを言えば、どんなに気が滅入ったときでも、自ら死を選ぼうなどということをわずかでも考えたことはありません。死んではつまらないし、もったいない。この先に残っている人生で、まだいろいろなことができそうな気がしますから。

三島由紀夫さんはああいう形で自ら命を絶ってしまいました。自衛隊市ヶ谷駐屯地(当時)への立てこもり、決起の呼びかけ、切腹、介錯。それ以前に「楯の会」での行動や著作を通じ、自死までの道をごてごてと飾り付けていきました。けれども私は、それをちっともうらやましいとも美しいとも思いません。

江藤淳は私の文学に「死の影が差している」と評しましたが、私は行動派であり肉体を酷使するだけに、死に近づくのは道理です。しかしそのときに死を強く意識するということはありません。あくまでも、そのときそのときの自分の人生を謳歌するという考え方があるだけです。

今、残念だと思うのは、日本人の多くが幼稚になったということです。人間の価値であるはずの感性が鈍麻し、あれかこれかと議論するのはちまちました小さなことばかりになりました。会ってみて感じるのはのっぺりとした平凡な人間性で、こちらがショックを受けるような鮮烈な個性を持った人間がいなくなりました。特に若い世代に少ない。

今の日本の政治家はほとんどが幼稚です。歴史を知らないからです。本質的な歴史観を踏まえて、今の自分を考える、今の国を考える、そういう本当の教養を持った政治家がどこにいますか。みんな姑息で、その場その場で一時しのぎの自己満足や自己暗示に終始しています。

突如として世界を襲った新型コロナウイルス問題への対処が象徴的です。これこれの時期になったら経済活動を再開できるだろうとか、旧に復することばかりを考えている。でもこの新型ウイルスの流行はしばらく続きます。1年先延ばしした東京オリンピックですが、私は開催できないと見ています。