アラブ地域での空手の競技人口は200万人にも上る。日本の武道が広まった背景には、シリアに派遣された空手家・岡本秀樹の存在があった。だが、当初集まった生徒は3人だけ。現地の生活に嫌気がさし、帰国を決めた岡本がとった行動とは——。

※本稿は、小倉孝保『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

イスラエルの兵士たちが、M-16A4アサルトライフルを手にしている
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教えたいのに生徒が集まらない

1970年5月。青年海外協力隊(JOCV)の隊員として岡本秀樹がシリアに派遣され半年近くが過ぎようとしていた。彼はこのとき28歳、空手を始めて12年になる。

時代錯誤の高下駄に「蒙古放浪歌」。しかも何を思ったか岡本は羽織はかま姿である。通りを行き交う地元住民が、怪訝けげんな顔でこの男の通り過ぎるのを見るのも無理はない。

一方、こうした芝居がかったことをしている岡本本人には時代錯誤の思いは微塵みじんもない。体中を突き抜けんばかりに沸き起こる怒りに自分が抑えられなくなっている。

岡本はこの国の若者に幻滅していた。シリアの警察学校で空手を教えていたが、この伝統武道の知名度は低く、生徒が集まらない。ブルース・リーの主演映画「ドラゴン危機一発」が香港で大ヒットするのは翌71年である。当時のシリアでは戦える技としてはボクシング、レスリングが主流であり、続いて自己防衛としての柔道があった。

そんな中、シリアが警察学校での教科に空手を選び、最初の指導員として岡本を受け入れた。彼はここを拠点に、いずれは全アラブ世界に空手を広めてやろうと思っていた。