オレたちはろくな死に方をしないだろう
「日本で一番危険な編集者」。1990年代の週刊誌黄金期にそう評された元木昌彦は、「雑誌はやろうと思えば何でもできる」と語る。元木は言葉のとおり週刊誌編集長として「何でも」やった。本書はそんな元木が編集者としてどう生きてきたかの記録だ。
今では誰もが知っている「ヘア・ヌード」という言葉を生み出したのも元木だ。過激なグラビアは、新聞などの猛烈な批判にも屈することなく性表現の自由を大きく拡大させた。宗教法人『幸福の科学』大川隆法総裁を批判すると信者からの抗議のFAXが2トンにも及び、山口組の瑕疵を指摘すると若手組員による襲撃を受け編集部員は血を流した。それでも元木は歩みを止めなかった。衝撃的な誌面は話題を呼び、販売部数も伸びた。本書では規格外の企画づくりの一端が明かされるが、当の本人は「苦し紛れにやったこと」とケロッとしている。
「テレビや新聞にできない生々しい記録こそが雑誌の価値であり、時代を映さない雑誌に意味はない」と元木は断言する。「苦し紛れ」と言っても元木の雑誌への愛は人一倍だ。雑誌とともに生きた男の奮闘は、「週刊現代」を通じ「平成」という時代を体現した。
「講談社という名前を出し、編集者自らが中で何が起きていたのかを記録した出版物はなかった」。元木の「週刊現代」編集長時代は平均実売70万部。人と会うのが仕事といわれる編集者の交際は作家から芸能人にまで及ぶ。経費は青天井で仕事より飲みの時間が長い。そんな派手な生活と同時に「自由」のための闘いが語られる。「ヘア・ヌード」は性表現の自由の象徴になった。一方で、「(戦争のできる)『普通の国』をつくる」という政治家・小沢一郎を徹底的に批判した。「記事をつくりながら本気で怒っていた。今の雑誌は口先ばかり。起きていることの解説文を読まされても世間の人には届かないだろう」。
それでも当時の編集者や記者の間には刹那的な雰囲気が蔓延し「今のような時間が続くはずはない」と考えていたという。彼らの多くは学生運動に「挫折」し、あぶれてきた人たちだった。「ろくな死に方はしないだろうと酒を飲むたびに話していた」と言い、「そうした仲間たちが刀折れ矢尽き亡くなっていった」。その寂寥感とでもいうべきものが『野垂れ死に』という題には滲んでいる。
しかし、本書は「彼らを悼んで」書かれたのではない。元木は「生きながらえたものの宿命」として記録を残したのだという。元木やその仲間たちの記録は、今を生きる私たちの宿命は何かと問いかけている。(文中敬称略)
1945年生まれ。70年講談社入社後、「FRIDAY」「週刊現代」「Web現代」の編集長を歴任。上智大学や明治学院大学などで講義を担当。主な著書に『編集者の学校』『編集者の教室』『週刊誌は死なず』などがある。