甲子園に一度も出場せずにどうやって入団したか

なぜ、野村さんの話をしているのかというと、その経歴が波乱万丈だからです。野村さんは三歳のときに、お父さんが日中戦争で戦死されて、その後はお母さんが女手一つで兄と野村さんを育てました。

貧乏家族でした。野村さんは小学校4年生の頃から新聞配達のアルバイトをしていました。学校の始業時間ぎりぎりに学校に着いていました。そのアルバイト料はもちろん自分の懐に入れず、お金の工面で苦労していたお母さんに渡したそうです。

中学3年生から野球部に入部し、高校3年間は野球漬けの毎日でした。しかし、甲子園には一度も出場していません。それでは、どのようにしてプロ選手になったのか。何と「南海ホークス・選手募集」の新聞求人広告欄を見て入団テストを受けての入団でした。1953(昭和28)年11月の頃でした。

体力には自信があった野村さんの、唯一の欠点は遠投ができなかったことです。80メートルが合格ラインでしたが、その5メートル前でボールが落ちてしまうのです。ところが、幸運でした。その日手伝っていた2軍選手が、「5メートル先から投げろ」と言ったらしいのです。そして、野村さんはブルペンキャッチャーとして合格しました。

「この世界は才能だよ」と冷やかされても……

しかし、入団早々にコーチから言われたのは、「2軍のブルペンキャッチャーから1軍選手となり、活躍した選手はいない」。その言葉がショックで、野村さんは練習の虫になりました。

毎晩、練習後に宿泊所の裏庭で、素振りの練習をしていました。いいスイングの時は、ブッという音がしたそうです。スイングの音を耳で確かめながら素振りをしていると、1時間、2時間がアッという間に過ぎました。素振りごとに、「ダメだ」「よし」と自分で判定しながら、素振りをしたそうです。

チームの先輩たちからはよく冷やかされたそうです。宿泊所の裏庭で素振りをしていると、「野村、バットを振って1軍選手になれるなら、みんな1軍選手になっているよ。この世界は、才能だよ、素質だよ。きれいなお姉ちゃんのとこに行こう!」と誘ってきました。

その甘い誘惑にふらふらと乗りかけもしましたが、金がありませでした。だから、もっともな理由を言って断り、素振りを続けました。

ファンからもらったアメリカの本が転機に

野村さんはバットをずっと振り続けて、マメを作って寝る毎日でした。そんな姿を、2軍監督がじっと見ていました。2軍監督は選手として褒めるところがないので、「よう頑張るな、おまえ」と声がけしたそうです。

2軍暮らしが長いこと続きましたが、そのうちチャンスが巡ってきました。入団2年目の1軍キャンプに2軍監督の推薦で参加できました。チャンスは次第に増えていきました。しかし、バッティングに欠点があり、カーブが打てなかったのです。