野村氏は明智光秀に自分を重ねていた

昨年12月末に、野村さんから1冊の献本がありました。その書籍はご自身が執筆された『野村克也、明智光秀を語る』(プレジデント社)という書籍でした。

野村さんが長年の研鑽けんさんの末に得られた洞察力は、野球を越え歴史上の人物さえを語られるのか、と少し驚きました。野村さんはこの書籍で、「私の人生は弱者の人生なのである」と話されています。

「弱者の流儀」とはどのようなものかについては、若い頃の貧しい暮らし、ともに愛妻家だったこと等の光秀の人生との共通点を見つけ出し、その上で光秀には私と同じように〈想像して、実践して、反省する〉という思考があることを指摘されました。とくに、反省をしっかりとすることで、凡人なりの成功が確実に見えてくると話されていました。こうした日々の努力を生真面目に行う生き方を「弱者の流儀」と捉えていました。

明智光秀が歴史の表舞台に登場し、戦国の歴史に名を残すことになったのは、2回の奇跡があったからです。

「敗者は私たちにとって人生の教科書です」

一つは、41歳で信長の家臣になったことでした。1567(永禄10)年美濃を手に入れ、「天下布武」を唱えた信長に、足利義昭を紹介するその橋渡し役を買って出たのが光秀でした。その光秀の才能を高く評価した信長は家臣として抱えたのです。

4千貫の高禄でした。この禄は佐久間信盛、柴田勝家という重臣クラスと同じでした。後年、豊臣秀吉になる木下藤吉郎秀吉のこの時期の禄は2千5百貫でした。

次の奇跡は、1575(天正3)年、丹波攻めの総大将になったことから始まりました。京都を押さえた信長にとって、中国地方、北陸地方のほとんどが手つかずのままでした。

そこで、光秀は丹波の情報を詳しく集め、丹波の地形を踏まえた戦術を練りました。それは、丹波は山岳の小さな盆地ごとに、豪族たちが砦を築いていたので、力攻めは極力避け、交渉を繰り返し、調略をもって豪族たちを味方に引き入れる作戦をとりました。

そして、5年目の1579(天正7)年に丹波平定を果たしました。この時期の光秀は丹波攻略のみに専念したわけではなく、信長の命令で幾度も転戦させられていました。こうした中での5年での平定は、奇跡に近いものでした。だから、信長からは激賞されて、丹波を領地として与えられました。

光秀もまた「弱者の流儀」でのし上がった人間です。信長に期待され、抜擢されて、丹波攻めを成功させて絶頂の時期もありました。しかし、その後、苦悩が横たわり、最後には謀反、敗北という形で己の生命を終えました。

その意味では、信長、秀吉、家康らの勝者たちよりもドラマチックで生々しく生きたのです。野村さんは、敗者は私たちにとって人生の教科書ですと語っていました。