オバマ規制の第一と第二のポイントは、まさに銀行自身による投機の禁止である。銀行の外にある投機的なファンドへの銀行による資金投入の禁止が第一点であり、銀行自身が投機的行為をすることの禁止が第二点である。規制の第三点である銀行の規模拡大への規制は、第一と第二の規制で投機行為を禁止しても、その抜け穴がどこかに生まれ、結果として銀行の投機による損失が生まれてしまう危険を見越して、仮にそれがあっても銀行システム全体には被害が及ばないように「発生しうる投機損失の規模」を銀行の規模規制によって抑え込もう、という意図であろう。

理念としてこの種の規制に賛成である人も、実効性のある規制の具体案がつくれるか、という現実論になると、疑問を持つ人も多いであろう。それは、どんな規制をつくっても抜け穴をくぐる人が出てくるというあきらめゆえの疑問ばかりでなく、具体的規制のあり方次第で、「投資と紙一重の差しかない」投機が抑え込まれることによる、経済活力への悪影響がありうるからである。その悪影響をもたらさないような実効性ある規制は可能なのか。

むずかしい。しかし、それを承知のうえで、私はこの種の規制の具体化に賛成である。

 

金融取引では限界が表面化しにくい

その本質的理由は、情報通信技術の驚異的な進歩によって、金融取引の世界がもはや通常の人間の感覚では理解しがたいスピードと複雑さの世界に入り込んでいるからである。

金融取引は現在、電子のスピードで動く時代になった。コンピュータのスクリーンを相手に、行われているのである。対面でも、書類を物理的に送っての取引でもなくなった。

そのうえ、金融取引は数字の桁を簡単に変えられる。ゼロを増やせばいいだけである。それで取引規模はすぐに変えられる。

そうした取引のあり方は、モノを相手にしている普通の生身の人間の経済取引の世界とはまったく違う。

自動車産業で1回の取引規模を10倍にしたいと思えば、実際にクルマを10倍つくらなければならない。そのためには、工場を10倍にし、人手を10倍にし、原材料を10倍買う必要がある。それにはとんでもない手間と時間がかかる。だから、取引の決断の前に、限界がすぐそこに表面化する。

金融取引の世界には、そうした「自然限界」「物理的上限」がない。だから、いったん投機に走り出すと、すぐに際限がなくなる傾向が生まれる。本人の自制か資金供給の限界しか、限界条件がない。しかし、資金供給の限界を拡大するための金融手法、デリバティブ形成は、コンピュータの中で大量にできるようになってしまっているのである。

今回のオバマ規制は銀行のあり方についての規制であるが、その先には金融投機のあり方についての規制の議論がひそんでいる。地面を1時間に4キロ程度の速さでしか歩けず、しかも自分の脳の処理速度の範囲でしか判断できない人間のスピード感覚と、電子のスピードで世界中をかけまわるマネーのスピード感覚はかけ離れすぎている。

そのために起こる、誰も思ってもみなかったような投機の巨大化と投機ゆえに必然的に生まれる損失の巨大化。問われている問題の本質はそこにある。