人民を観客に見立てた「劇場」としての法システム

ここで筆者は、中国の法治にもう一つの特徴、すなわち「劇場的法システム」とでも呼ぶべきメカニズムが働いているのではないかという論を立てたいと思います(*2)。「民」を「劇場における観客」とし、「官」を「劇場における演者」とすれば、「中国政府にとっての法」は、「劇場内での現象」と同じ構造になっているといえるのではないでしょうか。劇場を運営する「一座」は、言うまでもなく中国政府や中国共産党であり、その目的は「観客」を喜ばせて人気を取り、「一座」が解散しないようにすることです。

つまり中国の司法当局としては、「民」(劇場における観客)から拍手をされるような「演劇」ができればそれでいいのであり、「民」には見えない「官」のみの世界(司法関係者同士のやりとりや法解釈など)は劇場における「楽屋」のようなもので、その中で何が起こっていてもかまわないという構造があるのではないか、ということです。

「民」(劇場における観客)から拍手をされるような「演劇」の例としては、2003年に重症急性呼吸器症候群(SARS)が蔓延まんえんした際、感染防止の観点から休業を命じられた遊興施設が、テナント先から家賃支払いを請求された民事裁判が挙げられます〔判決番号:(2004)瀘二中民二(民)終字第354号〕。このとき人民法院の示した判断は、「当該遊興施設は売り上げがないため、不動産賃貸借契約があっても、家賃の支払いを休業期間である3カ月分免除することが社会的公平に沿っている」というものでした。

休業で売り上げがない時期に、家賃の支払いが免除されるというのは、まさに「民」からすれば称賛したくなるような判断です。このとき「観客」の中には、家賃収入を期待していた大家という、遊興施設とは相反する利益を持つ者もいたわけですが、「家賃の支払いに苦しむ賃借人」の方が「劇場」内に多いなら、多勢に喜ばれる「演劇」を行うのは当然のことです。

スキャンダルが出ても「名優」は守られる

時には「民」という観客と仲良くなった演者(「官」)が楽屋内部のことを話したり、一部の観客が「楽屋」に紛れ込んで、その内部を見てしまうことも起きます。「政府内部の不祥事が明るみに出る」のはそんなときですね。

楽屋裏を見た「観客」は、「一座」(中国政府や中国共産党に相当します)やその看板を張る「名優」(大物幹部)に対して激怒しますが、たいていの場合「一座」は「観客」の怒りに耳を貸さず、ただ「観客」がそのスキャンダルを忘れるのを待ちます。なぜなら、「一座」の「名優」の人気の低下は、「一座」の存亡に関わるからです。スキャンダルが発覚した「名優」についての宣伝を一座がそれまで以上に並べて、「観客」の記憶が薄れるよう積極的にアプローチすることもあります。