私がベルマン時代にこんなことがあった。外国人のお客様がタクシーに乗るときにメモを渡したので、私が日本語でその場所を書いて運転手に渡した。しかし、30~40分ほど経って戻ってきて、玄関先で2人が口論していた。聞けば運転手が道に迷って目的地に到着するのが遅れ、お客様が行きたかったクラブはすでに閉店してしまっていたとのこと。お客様は「目的を達成していないのだからお金を払わない」と言って怒り出し、私にも「ここに電話番号が書いてあるのに、なぜ店に電話を1本入れて営業時間を確認しなかったのか」と言う。お客様の言い分は自分の案内に責任を持たなかったベルマン、道に迷ったタクシードライバーはプロとして失格だというのである。

結局、お客様の提案でタクシー料金をそれぞれ3分の1ずつ払うことで話は収まった。このとき、情報は単に右から左に伝えるだけではなく、1つずつ確認して初めて役に立つのだ、ということを痛感した。これは、資料作成、データ作成など何事についても情報を取るときは同じではないだろうか。

ホテルオークラのスタッフは自ホテルを「わざわざホテル」と言っている。それは、他の一流ホテルが人の集まる場所に立っているのに対し、ホテルオークラは東京の虎ノ門のオフィス街にある。ホテルオークラに来られるお客様は何かのついでに来られるのではなく、ホテルオークラに来る目的があって来られるお客様ばかりで、わざわざここまで来てくださるお客様に対して我々は「紙一重上のサービス」を提供しようとしてきた。

ベルマンは初めてのお客様が来ると、まず荷物のネームタグをさっと見て名前を確認する。「○○様、いらっしゃいませ」。こう名前を呼びかけることで、それは画一的なサービスではなく、そのお客様ひとりへのサービスに変わる。チェックアウトのときに雨が降ってきたので「傘をご用意いたしましょうか」「イヤ、あとは新幹線に乗るだけだから、ぬれないところまでタクシーに乗せてもらうからいいよ」「そうですか。ありがとうございました。行っていらっしゃいませ」。そして、1カ月後に同じお客様がみえたとき、「あ、そういえば、雨、大丈夫でしたか?」とサッと言えれば昨日のことのように話を続けることになり、スマートなコミュニケーションが可能になる。このお客様は初めて来日したのでこんな話から切り出していこうかと考えたり、足をひきずったお客様がチェックインしたらエレベーター近くの部屋を取るように配慮したり、結婚式で媒酌人がその日の新聞の一節についてスピーチで触れたらサッとコピーを取って皆さんのテーブルにお配りする、などといった気遣いが紙一重上のサービスには必要となる。