※本稿は、清水唯雄『のっこむ! 「ものづくり日本」を人で支えた半世紀』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
オイルショックで、すべての仕事が契約解除
製造業の工場内で業務を請け負う「製造請負」の仕事はその後も順調に増えつづけ、事業としての先行きが見通せるようになってきました。私は法人化を決意し1971(昭和46)年2月、現在の日総工産の前身、日総工営株式会社を設立しました。
会社設立の翌年、1972(昭和47)年に田中角栄内閣が成立し、「列島改造ブーム」が日本中を席巻するようになります。建設機械、産業機械分野の大幅な需要拡大を受けて、大手メーカーからの仕事がさらに増えていき、社業は順調に発展を遂げていきました。
しかし、残念ながらこの好況は長くは続きませんでした。その翌年の1973(昭和48)年10月、第1次オイルショックが世界を、そして日本を襲ったのです。仕事は徐々に減っていき、75年の初めには、請け負っていたすべての仕事が契約解除となりました。従業員は解雇せざるを得ず、不動産など会社の資産もすべて手放しました。虎ノ門にあった事務所も引き揚げ、川崎にいた知り合いの会社に間借りする形で仮事務所を置きました。
このままでは終われない。何とか会社を再興させたい──。そんな思いで始めたのが、夜間の工業団地巡りでした。
高度成長期、首都圏では工業団地の造成・誘致が盛んに行われていました。千葉県でも、松戸市では自治体が主導する形で北松戸・稔台・松飛台の3つの工業団地が造成され、浦安にも都内から鉄鋼関連の企業が移転する形で工業団地ができつつありました。