息苦しいと感じていた職場とはまったく違う世界
無断欠勤から10日、ばつが悪いのは承知で小さな勇気をもって出社した私を待っていたのは、「そういうこともあるわな」という上司と先輩たちのニタっとした笑顔。息苦しいと感じていた職場とはまったく違う世界がそこにはありました。いや、実際は、私の心の様相が変わったことで見え方が変わっただけだったのです。
ビジネスマンとしては決して褒められた行動ではありませんが、私にとっては、人は心の状態で見え方も、取り組み方も変わるということを学ぶいい機会になりました。
次の分岐点をあげるなら、それから30年の月日が流れ、化学担当の役員になったことでしょうか。1988年は、ダイキンという企業にとっても大きな転換点となった時期でもあります。当時の主力事業だった化学部門の存続が危ぶまれる三重苦に瀕していたのです。
ひとつは、2名の逮捕者を出してしまったココム(対共産圏輸出統制委員会)規制違反事件。その前年には、モントリオール議定書が採択され主力製品のフロンが国際的な規制対象になり出荷量が減少、またダンピング提訴によって、米国へのフッ素樹脂が輸出停止に追い込まれていたのです。
私が化学担当役員の辞令を受けたのは、まさにそのときでした。山田稔社長(当時)から呼ばれた私は「ちょっと待ってください。私は事務屋一筋で、化学式はH2Oしか知りません」と言ったことを覚えています。それでも山田社長は「そんなもん知らんでええ。おまえは淀川工場にいる人たちを知っているだろう。事業部に明るさを取り戻してやってくれ」。
三重苦に見舞われた化学事業部は、ココム事件で度重なる事情聴取を受け疲弊し、暗い雰囲気が漂っていました。そこで私が取りかかったのは、化学事業部のメンバーの心の状態を前向きにすることでした。技術力はあるのですから、がむしゃらに挑戦できる環境をつくることができれば、明るさを取り戻せると考えたのです。
挑戦の舞台は、アンチダンピングでビジネスがゼロになった米国市場。アメリカに工場をつくり、そこで生産したものなら、米国で売ってもアンチダンピングの対象にはなりません。アラバマ州に土地を購入し、工場建設に着手。化学事業部から総勢100人が現地に行き、その建設や機械の試運転に携わることになりました。先が見えたことで徐々に活気を取り戻した化学事業部は、急速に回復していくことになります。海外事業に取り組んだ化学担当での7年間は、私が初めて事業部門を担当した経験でもありました。この経験がなければ、その後、私が社長になることはなかったと思います。