強いリーダーシップを示そうとした首相
安倍首相からすれば、「無策」のまま新型コロナの蔓延を放置すれば、政権の足元を揺るがしかねない。25日に加藤勝信厚生労働相が公表した新型コロナ対策の基本方針は不評だった。さらに「桜を見る会」や黒川弘務検事長の定年延長問題で内閣支持率が落ちていたタイミングとも重なった。局面を打開するため、首相は強いリーダーシップを示す必要性に迫られていたのだ。
もともと政治家は権力を行使したがる人種である。危機に直面して「無策」だった場合の国民の批判は凄まじい。
かつて水産高校の練習船が米軍の潜水艦に衝突されて沈没した際、のんびりとゴルフをしていたとして森喜朗首相(当時)が批判にさらされ、退陣するひとつのきっかけになった。天災が起きた際に「対策本部」が官邸に設置され、関係閣僚が駆けつけるのはもはや当たり前の光景になっている。今回の新型コロナでも官邸での対策会議を欠席した小泉進次郎環境相らに、首相は「注意」せざるを得なかった。
そんな中で、新型コロナ対策で「無策」を続ければ、批判を浴びるのは火を見るより明らかだった。一方、一斉休校が仮に過剰だったとしても、なかなかそれを批判するのは難しい。科学者の意見よりも、政治的な判断が優先された、ということだろう。
危機発生時の「手順」を整備するのが霞が関の仕事
これを政治家の独断専行、暴走と言うかどうかは別として、そうした行動を封じるために、「法令」を整備しておくのが霞が関の基本である。危機が生じた際、どういう手順で対策を発動するか。それを誰が、どの会議体で決めるのか。
首相が決めれば何でもできるというのは、首相が暴走するというリスクがあるだけではなく、首相が決断できない人物だった場合にも大きなリスクになる。
パンデミックが起きた場合、誰がどういう手順で学校を休校にするのか。学校長の判断や教育委員会の決定を待っていたら、全国一斉の休校は難しいし、学校ごと、地域ごとにバラバラな対応を許せば広範な地域での「封じ込め」はできない。
今回のように学校職員の感染が確認された段階で、仮に1日で判断を下すとしたら、どういう手順を踏むのか。事前にまったく「想定」がされていなかったという事だろう。もし手順が明確に決まっていたなら、厚労相や厚労次官も、より説得力のある対案を首相に示せたろうし、首相も耳を傾けたろう。それでも首相が蛮勇をふるって強硬策を取ろうとすれば、事務次官は職を賭して反対することもできたはずだ。