先生は答えを与えず、子ども同士で議論させる
授業の教材にはビデオも使う。先生が活用するのは、<君がもし、私の立場だったら>という短編ドラマのシリーズだ。
シリーズの一つに、車椅子の生徒を主人公にしたものがある。昼休みの校庭、車椅子の生徒に別の生徒が近寄って言う。「車椅子だと走れないから、僕が押して走ってあげる。速く走ると、気持ちいいから!」車椅子の生徒が同意し、二人で楽しく校庭を走り回っていると、別の生徒がやってくる。「そんなことしたら危ないよ!」と叫んで遊びを止め、車椅子の生徒のカバンを「持ってあげるね」と奪い取り、動画は終わる。
ビデオ上映の後は挙手式で、自由討論をさせる。やはり危ないからダメだ。当人同士がいいならいいだろう。速すぎなければいいのではないか……と飛び交う。そこで重要なのは、視点の異なる意見が出ることだ、と先生は言う。
「前回の上映では、『私は最後、カバンを奪ったのが気になった』と言った生徒がいます。車椅子の子もカバンは自分で持てるでしょう? なぜあんなことをするの? と。あれはよかったですね」
そこから、議論は障がい者の自立について広がっていったそうだ。
「私は進行役ですので、答えを与えません。障がい者の権利に関する知識を補完したりはしますが、生徒同士の意見交換が大切なんです。生徒たちが『市民』になっていくには、自分自身で考えねばなりませんからね」
「けんかを促す子」に先生がかけた言葉
基本は生徒の意見交換を尊重するが、やはり介入が必要なときもあると、アントニオ先生は別の例を出した。クラスで実際に起こった出来事だ。
男子二人がけんかを始めた時、周囲の生徒がやめさせようとする中、逆に周囲をいさめ、けんかを続けさせようとした生徒がいた。一対一の勝負に他人は入ってはいけない、本人同士で解決させろ、と。
「普段とても真面目でまっすぐな子なので、驚きました。とりあえずけんかを止め、放課後、その子と個人面談をしました。すると『僕の周りの大人はみんなそうしてる』と言うんです。少し荒っぽい界隈に住む子で、日常的に目にしている光景がそれだったんですね。彼は自分の生きている社会をそのまま、クラスに持ってきた。まさに、学校は社会の縮図なんです」
先生はこの話を、暴力の観点から解きほぐしたそうだ。暴力は犯罪であり、人は殴り合わなくても話ができる。そのためには周囲の助けが必要なこともある。相手がナイフなどの武器を持っていたらどうする? どちらかに重大事が起きてからでは遅いのだ……。
「彼は黙って聞き、うなずいていました。納得したかどうかは分かりません。時間をかけて見ていくしかない。評価なら『獲得中』の段階ですね」
生徒たちとの個人面談で必要を感じた際、先生は必ず記録を残す。そして生徒本人にも、記載内容を確認させる。のちに事態が悪化して、家族面談を行うこともあるためだ。
「どの親御さんでも『うちの子に限って』と思う、それが当然の反応です。その時に記録を出して、生徒本人と確認した旨を伝えます。そして断固として、かつオープンに、親御さんと今後について話し合う。学校と家庭が協働できれば、どんな問題も解決できます。そうでない時は……本当に、難しいです」
道徳の授業が、進級や留年の判断材料になることはない。しかしこの授業で養うべき能力が身につかず、学校で問題を起こし、家庭の協力も得られない最悪のケースでは、転校に至ることもある。
「その意味では、道徳の学びは成績表の評価以上に、重要なんです」