北島には、それを意識する余裕もなかった
退院後は日本で自分の体調をしっかり見極めながら、泳ぎをつくることから始めたが、その間にライバルのブレンダン・ハンセンは100メートル59秒13、200メートルは2分08秒74と自身が持つ世界記録を更新していた。だが北島には、それを意識する余裕もなかった。
チームに合流して迎えた8月17日からのパンパシ。その大会は大きな意味を持つものになった。最初の100メートルは平凡な記録ながら日本人トップの3位になって世界選手権代表を確定させたが、次の200メートルで見せつけられたのはハンセンの強さだった。予選は0秒24遅れるだけの2位通過。「2週間前に世界記録を出したハンセンには疲労がある。決勝は面白い勝負ができるかもしれない」と意気込んだ。だが100メートルまでは付いていけたが、ラスト50メートルでは圧倒的な力の差を見せつけられた。ハンセンが猛烈なラストスパートで2分08秒50の世界記録を出したのに対し、北島は2分10秒87。
「僕は150メートルでいっぱいいっぱいだったが、彼はそこまで余裕を持っていたということだから。あそこまで離されると『勝負できねえ!』みたいな……。自分が全然進んでいないみたいだった」こう話した北島だが、その表情は明るかった。隣のレーンで泳ぐ相手の強さを肌で感じたからこそ、北京で勝つためには何が必要かが明確にわかり、それに向かって挑戦したいという気持ちを掻き立てられた。それがあったからこそ北島は、再び前へと進み始めることができたのだ。
自分の現状を冷静に見極め、勝つためには何が必要かと考えることで高まる意欲。北京五輪の男子フェンシングで銀メダルを獲得した太田雄貴も、そんな瞬間を経験している。
五輪代表権争いも中盤を過ぎた07年9月には世界ランキングを5位まで上げていた太田だが、その後の世界選手権で「負けるはずがない」と思っていた中国選手にベスト16で負けてから迷いが出てしまった。彼の持ち味はディフェンス主体の戦法だったが、オフェンスの必要性も考え始めた。年明けからはオフェンス主体でいくという決意までした。
それがうまくいく試合もあったが、五輪出場が決まった後の5月末からの遠征はボロボロになった。早々の敗退で世界ランキングは10位まで下がった。6月には心身ともに疲弊し、フェンシングをやっても手足がバラバラになっているような感覚さえあった。