1955年、岐阜県生まれ。55歳。79年東京大学法学部卒業、同社入社。2002年経営企画部長、04年常務取締役、07年専務、09年副社長。4月より現職。
1.出身高校:岐阜県立岐阜高校
2.座右の書、好きな本:P・F・ドラッカー『マネジメント』
3.尊敬する歴史上の人物:特になし
4.座右の銘、好きな言葉:艱難汝を玉にす
5.健康法・ストレス解消法:出勤時に階段を上る、ゴルフ
「よく生き延びたものですよ。本当に」
ふと漏らしたこの言葉にも、実感がこもる。日比野隆司が、大和証券に入社したのは79年。気づいてみれば、証券業界に君臨していた大手4社体制もいまはない。20数社あった準大手も、ほとんどが銀行の軍門に下ってしまった。
「野村(野村ホールディングス)さんは、リーマン(の一部)をM&Aしたから、ピュアな民族系独立証券会社って、うち一つだけじゃないかな」
日比野は東京大学法学部卒。入社当時、証券業はまだ免許業種。だから、所轄官庁だった大蔵省との関係も踏まえて採用されたエリートである。といって、エリート臭さは全くない。日比野を知るOBも「若いときから大物の雰囲気があった。かといって、えらそうなところもなく人の話もとてもよく聞く」と人柄を評する。
債券・株式の売買を行うマーケット部門を経て、ずっと企画畑を歩いてきた。従来なら、順調に出世街道を歩いていたに違いないが、時代はそれを許さない。
運用開発部の次長時代には、部下による大量の誤発注に直面。あわてず、騒がずこれに対処した。97年の金融危機の際は特命チームも任された。大和証券の格付けが「投機的レベル」にまで下げられそうになる事態に直面したからだ。
投機的レベルに下げられると、ドルなど外貨資金の調達に支障をきたし、資金ショートさえ起こしかねない。自らニューヨークの格付け会社に乗り込み、格下げの事態を回避した。「あれ以上のピンチはちょっとなかったですね」。
その証券人生を象徴するかのように、社長としても厳しい局面からのスタートとなる。大和はリーマンショックの影響で09年3月期に1411億円の経常赤字を出したが、前11年3月期、今年度第1四半期も経常赤字だった。最も大きな要因は、大和証券キャピタル・マーケッツ(CM)が受け持つホールセール(法人)部門の赤字だ。
99年、大和証券はホールセール部門を切り離し、住友銀行(現・三井住友銀行)と合弁で、大和証券SBCMを設立したが、09年に三井住友フィナンシャルグループが日興コーディアル証券(現・SMBC日興証券)を買収するにあたって合弁を解消した。それが、いまの大和証券CMである。
「ホールセールの赤字は合弁解消の影響ではないか」と問うと、「ダメージがないというのもいいすぎだし、すごくあるというもいいすぎ。市場環境が悪かったインパクトのほうが大きい」と、ここだけは強く反論してみせた。