商店街が生まれ、新聞社が入り、流行の街に

そもそも銀座通りは日本橋から続く天下の大道・東海道の一部にあたり、明治13(1880)年頃には柳並木が整えられ、同15年には市街の軌道交通機関としては日本で初めての東京馬車鉄道が走り始めている。明治5(1872)年2月の丸ノ内から銀座を経て築地に至る大火の教訓から道路が拡張され、その両側に西欧風の「銀座煉瓦街」ができた。

気候風土に合わず使い勝手が悪かったらしく、徐々に改築などで洋風建築は消えていくが、この地には洋食屋、パン屋、時計商、洋服店など文明開化の時代にふさわしい新しい店舗が進出し、魅力的な商店街に変貌していく。同時にいくつもの新聞社が社屋を構えたことにより、その広告を扱う代理店、印刷所なども集まり、進取の気性に富む独特な地域となった。すでに大正の前半には魅力的な店を巡って歩く「銀ブラ」の言葉が用いられるようになる。

東京市中心部の多くを焼失させた関東大震災では銀座も大きなダメージを受けるが復興も早く、大正13(1924)年に松坂屋、同14年に松屋、昭和5(1930)年に三越と百貨店が相次いで進出、地価の高さもこの頃には日本橋を抜いて全国一となった。このようにして戦前にはすでにブランド地名としての銀座が確立していたのである。

震災復興で「銀座エリア」は3倍近くに拡張

その震災復興事業では銀座が早速拡張された。この頃は復興事業に伴う町名地番整理事業が東京市内の都心部を中心に進められており、それまで四丁目までだった銀座に、昭和5年から新たに五丁目~八丁目が加わった。

しかも銀座通りの東西の狭い範囲、具体的には西は1ブロック、東は2ブロックのみ(四丁目のみ1ブロック)だったものが東西すべて2ブロックずつ、新たな五丁目以南にもそれが適用されたため、尾張町一~二丁目・三十間堀一~二丁目・南紺屋町・元数寄屋町・弓町・鎗屋町・南鍋町二丁目・出雲町・竹川町などが消えて銀座になった。この結果、震災前の旧銀座エリアの約7.5ヘクタールは一気に3倍近い21.0ヘクタールに広がっている。

それだけでなく、この時に銀座の西側は「銀座西」という新たな町名が創設され、南紺屋町・弓町・新肴町・弥左衛門町・西紺屋町・元数寄屋町一~三丁目・滝山町・惣十郎町・南鍋町一丁目・南佐柄木町・加賀町・日吉町・八官町・丸屋町・山城町・山下町の一部ないし全部が消えた。多くは江戸時代以来の歴史的町名なので、実に惜しいことをした。さすがに広域すぎて「銀座」には入れてもらえなかったのだろうか。