偽善者かどうか考えても無駄
人は、ときに自分の行動が周りからどう思われるかを気にします。中高生くらいだと、とくにその傾向が強く、よい行いをした生徒に対して周囲の人間が「偽善者」と揶揄することがあります。
しかし私はいつも「偽善者かどうかを考えることこそ無駄。そもそも、人によく思われたいって素敵なことでしょ」と伝えています。この「偽善」という言葉を紐解いていくと、人間が「心の在り方」にいかにこだわっているかがわかります。
ここでまったく正反対の「偽悪」という言葉をご紹介します。この言葉は私が大学時代に読んだ絵本、『きつねのざんげ』(安野光雅・著/岩崎書店)のあとがきで知った言葉です。偽善と偽悪。一見、相反するように見えるこの2つの言葉ですが、実はまったく同じものなのではないかと私は思ったのです。
「偽善」というのは簡単に言えば「いい子ぶる」というようなイメージで、周りによく思われたくて善行をすることを意味します。それが周りから見たときに、その人の「本当の姿」と乖離があるために、「偽善者だ」と揶揄されるわけです。
「偽悪」は簡単に言えば悪ぶること。周り(とくに身近な仲間)に「いい子ぶってる人間だ」と思われたくないために、わざと悪いことをすることを言います。
大切なのはどんな行動をするか
いい子ぶるのも悪ぶるのも、中高生にはよく見られる行動ですが、どちらも自分の周りによく思われたいと思っているからに他なりません。
人からよく思われたくていいことをする「偽善」も、仲間から一目置かれたくて悪いことをする「偽悪」も、行動の中身は違いますが構図は同じです。「周りからどう思われるか」という他人の心のうちが気になり、行動ができなくなることは、誰にでも少なからず経験があるでしょう。
しかしこういった言葉に振り回されてはいけません。大切なことはどんな行動をするかです。人は行動の積み重ねでこそ評価されていくものだからです。最近はあまり使われなくなりましたが「お天道様は見ています」という言葉があります。
近くに誰もいなくてもお天道様は見ているのだから、どんなときも悪いことをしてはいけないということを言い聞かせるための言葉ですが、「自らを律して、しっかり生きていきなさい」という素敵なメッセージが込められています。子どもたちには、自分の心のなかの「お天道様」を意識し、歩んでほしいものです。