【新谷】事件が起こった95年3月20日は締め切りの日。朝一番でポケベルが鳴って編集部に電話をかけたら、「すぐに○○病院に行け。どんどん患者が運び込まれてくるから、話を片っ端から聞け」と言われて、ひたすら聞き続けたんです。夕方6時頃に、またポケベルが鳴って「おまえが原稿を書くんだ」と。10人ぐらいの記者のデータ原稿を読んでるうちに「この人とこの人は、同じ電車の同じ車両だ」とわかってきました。車両ごとに話を組み直していったら、うまくドキュメントになるなと思ったんです。
【松井】平成で最大の事件は、95年のオウム真理教による「地下鉄サリン事件」と、97年に起きた少年Aの神戸連続児童殺傷事件だったと思う。森下さんは、少年Aの両親の手記という大スクープを取った。
【森下(朝日)】大阪の『日刊ゲンダイ』から週刊文春の記者になって、1年経たないぐらいですね。
【新谷】前任の編集長のときの「中3少年“狂気の部屋”」という特集では、私が原稿を書いたんです。
【松井】あの記事は森下さんじゃなくて、新谷さんが書いたんだね。
噛みついたら放さない「諦めの悪い」記者
【新谷】森下さんはまだ取材班に入ってなくて、松井編集長に「私もやらせてください」と直訴を続けていた時期です。われわれの取材が全然だめだと思ったんでしょう(笑)。
【森下】そんなこと思ってないですよ!説明すると、Aが逮捕される2週間くらい前に、親しくしていた兵庫県警関係者から「地元に住んでる14歳の中学生が、捜査線上にあがっている。小学生のときに気味悪い脳の工作を作った子」という情報をもらったんです。でも、当時は大人が犯人視されており、企画会議で通らず、現地に行かせてもらえませんでした。
14歳の中学生が捕まったというニュースを聞いて、「しまった。なんでもっと強く言わなかったんだろう」と後悔したんです。翌年7月には和歌山毒物カレー事件が起こって、その取材の合間に神戸へ行き、ご両親と交渉を続けたんです。
【新谷】そうやって手記の出版に至るわけですね。大きなスクープを狙うポイントとして、編集長がどこまで我慢できるかってあると思う。記事になるかわからない中で、記者をどれだけ粘り強くひとつの現場に張り付けられるか、常に悩むところ。
【松井】森下さんは、とにかく「諦めの悪い」記者だった。いったん取材相手にくらいつき、噛みついたら放さないのは、実家で土佐犬と一緒に育ったからだ、と編集部内で言われていたけどね(笑)。