独りで考えた「4つの基本方針」

55年暮れに休職願いを出し、米カリフォルニア大バークレー校の大学院に私費で留学。米国のアジア政策、ロシア経済、米国の民主主義の3講座に通い、政治学を修了する。この間、自由・自立を尊重する米国社会に、何度も感心した。帰国後、神戸銀行(現・三井住友銀行)へ転職し、父が亡くなった後は兄が継いだ牛尾工業の経営に参加した。

64年3月、独立してウシオ電機を設立する。創業期に、牛尾流の原点となったことが、いくつもみられる。従業員は268人で、平均年齢は23歳。約半数が女性だった。当初の9年半を3段階に分け、給与水準の引き上げと休日増を目指す長期計画を策定した。続いて、自己申告制を導入する。全社員を対象に、経営方針への意見から異動の希望、個人的な悩みまで何でも記入してよく、毎年1月初めに出してもらう。

会社は、規模にさえこだわらなければ、必ず成功すると思っていた。ただ、それには、社員たちにやりたい仕事をさせないとだめだ。したい仕事をするのと嫌々やるのでは、発揮される能力は3対1も違う。若い人たちからは「いまの上司は嫌だ」とか「あの上司の下で働きたい」という申告が多かった。どんどん、実現してあげる。上司が嫌だと言っても、多くは「人生というのはそんなものだろう」と諦めていくので、人事に苦労はしない。社内で「社長へのラブレター」と呼ばれた試みだ。

石油危機を機に「量より質」を徹底し、世界の中堅企業としての道を拓かせた源流は、会社設立2年目に打ち出した「4つの基本方針」だ。一つ目が「会社の繁栄と社員一人一人の人生の充実を一致させる」だ。続いて「常に新しい国際社会において、品質、価格、サービスともに十分競争力を有する商品を創り出す」とある。この時代に、早々と国際化への対応を掲げている。

独りで考え、3日がかりで書き上げた。最初の目標には「この会社で青春期を送れて、幸せだった」と思ってほしい、そういう会社にしなければいけない、との思いを込めた。東銀時代に、寿退社していく女性が「4年間、この支店長のところで勤めさせてもらって、本当に幸せでした」と言った。それを聞き、「これだ」と胸に刻む。要は「ウシオ電機がよくなれば、自分たちの人生を充実できる」と確信してほしかった。

振り返れば、石油危機で挫折を味わうまで、慢心していたところもある。60年代半ばに続いた大口取引先の経営難に際し、トップ外交で切り抜けた。70年5月には東京証券取引所の第二部に上場。会社設立から7年目のスピード出世で、メディアに「第二のソニー」ともてはやされた。ただ、当時は、日本中が過信していたのかもしれない。高度経済成長下で、好況期には成長率が2けた、不況期でも5%程度はあった。その追い風に乗っていれば、多少の慢心も、破綻にまでは至らない。

でも、もう、そんな緩みは、許されない。低成長、価値観の多様化、グローバリゼーション、そして技術革新の加速。こういう時代にこそ、物事の判断は、儲かるかどうか、うまくいくかどうかよりも、「是非何如」でなければいけない。

会長になってから、社内の会議に出ないようにした。最初はうずうずしたが、すぐに慣れた。当然、時間ができる。その分は、社外でエネルギーを発散してきた。次回紹介する「政治志向」も、その一つだ。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)