笑いには「毒」が必要だ

「赤信号、みんなで渡れば怖くない」という言葉は、そんな大多数に流されがちな人間の本質を暴露した言葉であり、多くの人がそれに共感したのは、わが身のホンネをいい当てられたことに「いわれちまった!」と爽快感を覚え、大いに笑ってしまったからです。浅草で鍛えた毒舌ネタで、お茶の間の度肝を抜いたツービートならでは。ずばり、ホンネの笑いなんです。

舞台を見ていると、「あ、これはテレビではNGなことを喋ってるな」とニヤリとすることがよくあります。もちろんライブだって限界はありますよ。舞台だからといって何でも好きなことをいってもいいってもんではない。人が傷つくようなことを平気でいったり、差別を助長するような表現を何も考えずにいってしまっては、それこそ観客にはそっぽを向かれます。不快ですからね。

けれども笑いには、多少の毒が必要なんだ。いわば、スパイスが要るんですね。その毒のさじ加減が絶妙だったのが、ビートたけしや渥美清らです。でもそれは何も彼らのオリジナルってわけでもないんですよ。浅草で活躍したコメディアンたちが何十年とかけて脈々と受け継いできた伝統のようなもの、それが彼らに集約されて、さらに磨かれ、解き放たれたのではないでしょうか。

「放送禁止用語」は古典落語と相性が悪い

権威をかさに着るお役人や、善人を気取ったエロ親父、上役におべっかを使う小者に、偉ぶる教師、どれもこれも現実の世界に幅を利かせながら、一皮むけば大した人間ではない、そういった現実を茶化して笑い飛ばしてやることで、現実の憂さを晴らし、明日への活力を養う。単なるうっぷん晴らしだけでなく、世の中のホンネを役者と観客が共有することで一種のカタルシスを得られる、それがコメディ。とりわけライブのコメディの最高の持ち味だと思っています。

さらに今は放送禁止用語ってのもありますね。もっとも「禁止」というより、各放送局による「自粛」という意味合いが強いようですが。

多くの視聴者に番組を届ける以上、極端に卑猥な言葉や差別語を使うのをやめましょう、ってのは理解できます。ただ、そうであっても時には残念な思いをすることもあるんです。つまり古典落語などの場合です。

ご存知、古典落語の多くは江戸時代の庶民の風俗をネタにはなしがつくられていますから、当時の言葉や俗称がバンバン出てきます。当時は普通に使っていた言葉でも、今では「放送禁止用語」ってのがたくさんある。それらの言葉を使えないとなると、だいぶ困ったことになってしまうんです。