本人にはまだ結婚する気などなくても、あまりのしつこさにしぶしぶ見合いをしたら、それがご縁になったなどというのがほとんどのなれそめだったかもしれません。

恋愛結婚では、ピッチャーとして試合を切り盛りしていくことをすすめている私ですが、見合い結婚では、バットも振らないのにフォアボールで塁に出られて、急かされながら走っていたらなんだか1点入っちゃったということもあったのかもしれません。

恋愛で浮き彫りになる「人生の癖」

さて、ここからは恋愛や結婚の中であぶり出されてくる、ひとりひとりの「人生の癖」について考えてみたいと思います。それは人生の始まりから身につけた癖なのですが、それが2人の関係に大きな影響を与えることが少なくないからです。

この世に生まれたとき、私たちは誰もが100%の愛を与えられ、何の不満も不安もない状態です。泣けばいつでも母がおっぱいをくれ、また気持ちよく眠りながら、世界は私のためにある、私は世界そのものだという混沌の中に生きているのです。しかし、あるところで「私と世界とは違う」という分断線が入ります。

たとえば、弟や妹が生まれて、「あなたはもうお姉さんになったのだから、そんなふうに甘えていないでしっかりしなくちゃね」と、言われる。それは、100%の存在であった私に「甘えないでしっかりした子どもになったら愛されるけれど、甘えているままでは愛されないのよ」という禁止事項が与えられたということです。

この禁止によって、混沌として一体化した世界に分断線が入り、「私」と「世界」に分離されるのです。このことは、世界のあらゆる神話に描かれています。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた(『創世記』1章1節)

世界から切り離された「痛み」が人を育てる

上田紀行『愛する意味』(光文社新書)

混沌とした世界に、あるとき「光あれ」という言葉とともに光と闇ができる。そして、ギリシャ神話のプロメテウスや日本神話の大国主命(おおくにぬしのみこと)などの文化英雄が出てきて天と地を分け、天と地は「痛い」と言いながら分断される。その分断によって「私」という意識が生じ、同時に誰もがものすごい痛みを抱えることになる。

世界中にある創世の神話は、どれも荒唐無稽な作り話などではなく、人間の自我の形成そのものを示しているのだというのは、ユング心理学の系列の神話学者であるケレーニイなどの学説です。

私は最初から私であるのではなく、世界から切り離される痛みを持って私になっていくのであるということ。そして、痛みとともに与えられた条件(禁止事項)が、その人の「人生の癖」になるという考え方です。