父親を怒らせないようにビクビクする母親、父親の酷さを嘆き、ときに涙を流す母親をみて育つことで、自分の感情を抑えるようになった。自分が負担をかけたら、それでなくても不安定な母親が潰れてしまう。そう思って、甘えられない子どもになった。親子の役割が逆転しており、まさにアダルト・チルドレンの典型といえる。
暗い生い立ちを乗り越えた人がしていること
だが、この女性は、このような生い立ちのお陰で自立心が身についたという。周囲には大人になっても甘えが強く、自立できない人が多い中、甘えたり頼ったりすることなく、何でも自分でしようとする姿勢が責任感につながり、職場で信頼を得てきた。
また、人間関係が良好で、どんな相手ともうまくかかわっていけるのも、親の顔色を窺って育つことで人に対する気配りができるようになったためだという。頼れるのは自分だけという気持が強く、人を心から信頼できない、どんなに親しくなっても甘えられないし気を許せないという淋しい自分の問題を薄々感じてはいるものの、社会生活はすこぶるうまくいっているという。
この事例からも明らかなように、生い立ちは客観的な形で記憶を形成するのではない。心の中で意味づけされながら記憶となっていくのである。同じような生い立ちも、その意味づけの仕方しだいで、明るい未来を呼び寄せる記憶にもなれば、暗い未来を呼び寄せる記憶にもなる。
トラウマ神話やアダルト・チルドレン神話が罪なのは、今の不遇を生い立ちのせいにすることで、過去を否定的なものとして固定し、不遇な現状から脱せる希望を奪ってしまうことだ。大切なのは、不幸な生い立ちからも、今の自分につながる肯定的な意味を読み取ることである。それによって未来への希望が見えてきて、今を前向きに生きる力も湧いてくる。
同じ仕事でも不満な人と満足な人がいるワケ
ここで改めてわかるのは、私たちが生きているのは事実の世界でなく意味の世界だということである。もちろん人生において身に降りかかる事実が基本なわけだし、事実は関係ないというのではない。だが、私たちが事実を経験するとき、じつは事実そのものではなく、事実のもつ意味を経験するのである。
似たような境遇にあっても、前向きな気持ちで日々を過ごしている人もいれば、愚痴っぽくうつうつとした日々を過ごしている人もいる。境遇そのものが問題なのではなく、自分の境遇をどう意味づけるかが問題なのである。私たちは、現実そのものを生きているのではなく、現実が自分にとってもつ意味の世界を生きている。