息子を殺した元農水次官・熊沢氏の行為を僕は責められない
さらに、重要なことは、何の罪もない子供の命が他者に奪われ、最愛の子供を一瞬にして失ってしまうという事態を日本社会は絶対に認めないという姿勢を示すことだ。
亡くなった子供、そしてご遺族の苦しみを想えば、このような加害者や事件を絶対に許さないという姿勢を社会が示すべきだ。そのような社会の姿勢がなければ、亡くなった子供やご遺族はどうなる! このような姿勢を示す社会こそが優しい社会だと思う。カウンセラーやテレ朝の玉川氏は被害者への想いが弱過ぎる。
そしてこの事件の後、元農林水産事務次官の熊沢英昭氏が自分の息子を殺した事件が起こった。熊沢氏は、「息子は中学校時代から家庭内暴力を起こしており、最近、家庭内暴力が激しくなってきた。そして、近隣の小学校がうるさいと言い始め、川崎の殺傷事件を見て、息子も人に危害を加えるかもしれないと思い自ら殺した」旨を供述しているようだ。
何の罪もない子供の命を奪い身勝手に自殺した川崎殺傷事件の犯人に、生きるための支援が必要だったと主張する者が多いが、それよりももっと支援が必要なのはこの親御さんのような人だ。自分の子供を殺めるのにどれだけ苦悩しただろうか。どんな子供であっても、親にとっては最愛の子供なのである。
しかし、その自分の子供が他人様の子供を殺める危険があると察知し、それを止めることがどうしてもできないと分かったときに、親としてどうすべきか? 今の日本の刑法では危険性があるだけで処罰などはできない。ではその息子をどうしたらいいのか? 自殺で悩む人へのサポート体制はたくさんあるが、このような親へのサポート体制は皆無だ。確かに引きこもりに対してのサポートは色々とあるが、成人している息子がそのサポートを受けてくれなければどうしようもない。
他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、僕も熊沢氏と同じ選択をしたかもしれない。熊沢氏がどこまで手を尽くしたかがこれから問われるところだが、本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があり、熊沢氏にそれを止めることがどうしてもできなかったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責めることができない。むしろ本当にこれで他人様の子供が犠牲にならなかったのであれば、ホッとしてしまう。
近代国家の刑法としては、危険性があるだけでは処罰はできない。しかし、本当に他人を犠牲にしてしまう危険が自分の子供にあると判断した時に、社会が処罰できないのであれば、親が処罰するしかない。もちろんその後の責任は全て親が被ることになるが、他人を絶対に犠牲にしてはならないということをとことん突き詰めると、これだけ厳しい判断を迫られることになる。このような究極の選択も、死ぬのであれば1人で死ぬべきだと言うことも、他人を絶対に犠牲にしてはならないという、人の命を最も大切にした、きれいごと抜きの態度振る舞いだと思う。