政党政治の理念が朽ちていく時代に、孤立無援だった犬養

だが、犬養の目指したルールの中で切磋琢磨していく立憲政治のあり方は、満州事変後の戦局の拡大によって変質していく。政党政治の理念が朽ちていく時代状況の中で、宰相となった犬養が孤立無援の闘いを強いられていった。その過程は本書『狼の義』の大きな読みどころの一つだろう。

林 新、堀川 惠子『狼の義 新 犬養木堂伝』(KADOKAWA)

「リベラリズムとナショナリズムのはざまで苦しみながら普通選挙法を実現し、ときに自分を曲げながらもどうにか前に進もうとしてきた。そんな犬養にとって、首相になったときの孤独感や絶望は深かったことでしょう」

犬養は1932年5月1日、「内憂外患の対策」と題する最後の演説を行っている。経済政策などの「内憂」について述べたあと、「外患」に話が移ると、犬養は冒頭から軍部を刺激するようなこんな言葉を繰り出すのである。

〈極端の右傾と極端な左傾が問題である。両極端は正反対の体形ではあるが、実はその感覚は毛髪の差であり、ともに革命的針路を取るもので実に危険至極である〉

さらに犬養は演説の終盤ではこうも語ったという。

〈侵略主義というようなことは、よほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい。政友会の内閣である以上は、決して外国に向かって侵略をしようなどという考えは毛頭もっていないのである〉

日本が戦争に向かうのを、何としてでも阻止したかった

それから2週間後、犬養は官邸で銃弾に斃れた。堀川さんは言う。

「犬養のこの演説は当時あまりに危険なものでした。実際、夫の入手していた演説の音源と文書の記録を照らし合わせてみると、やはり激しすぎる箇所が削られていました。なにより私が衝撃を受けたのは、まさに命がけで話していることが分かる犬養の口調でした。満州事変の拡大は日本の破滅につながる。それを何としてでも阻止したい、という身をさらしての最後の抵抗であったことが伝わってくるようだったからです」

狼の義』の冒頭に一枚の写真が掲載されている。観音開きのパノラマ写真で、犬養が総理になった際、お祝いにかけつけた地元岡山の大勢の支援者たちと写した一枚だ。岡山県の木堂記念館に所蔵されているものだ。本書を手に取った際は、まずこの写真を広げてみてほしい。

「この写真が撮影されたのは、暗殺の30日前のことです。犬養の信じた国民の力というものが、凝縮されている写真だと言えるでしょう。犬養は悲劇の総理ではあるけれど、一方でこれだけの人々に支えられてきた。そう感じさせる彼の政治人生の終着のような写真です」

堀川 惠子(ほりかわ・けいこ)
ノンフィクション作家
1969年生まれ。テレビ記者を経てノンフィクション作家。『死刑の基準』で講談社ノンフィクション賞、『裁かれた命』で新潮ドキュメント賞、『教誨師』で城山三郎賞、『原爆供養塔』で大宅壮一ノンフィクション賞、『戦禍に生きた演劇人たち』でAICT演劇評論賞を受賞。
稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(文春文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)などがある。
(写真=akg-images/アフロ 撮影=プレジデントオンライン編集部)
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