「赤信号を渡らないことにショックを受けた」

リスクをとらずにぶどうの房がもがれるのをただ眺めていた人たちは、後になって「あのぶどうはきっと酸っぱいに違いない」と話し合って自分を慰めたりします。

こういった人たちが囚われる羨望と嫉妬と劣等感が複雑に入り混じった感情を、デンマークの思想家セーレン・キルケゴールはルサンチマンと名付けました。

ニーチェは著書の中で、ルサンチマンを持つ人々は非常に受身で自ら変化を主導しない(できない)ため、「他人と同じである」ことに最大の価値を見いだす、つまり他人と同じであることを「道徳的」と見なすようになると述べています。

これは大変耳の痛い話で、日本で起こっている状況を実に的確に表していると思います。

かつてサッカー日本代表の監督を務めたフィリップ・トルシエは、初めて来日した際、「誰も赤信号を渡らないことにショックを受けた」と述懐しています。なぜ、赤信号を渡らないことにそれほどまでに驚いたのでしょうか?

日本企業は「退職者に対して冷淡」な理由

彼にとって「赤信号をただ待っている」のは、「自分で状況判断して行動できない証拠」だというのです。こういう文化の中で育った選手はフィールド上でも主体的な判断ができない、まず、自分で状況を判断しリスクをとって主体的に動くというメンタリティを選手に植え付ける必要がある、というのが彼の最初の日本人観だったそうです。

私を含めて日本人の多くは、「たとえ車が来なくても、赤信号は待つものだ」と思っているわけで、このトルシエのコメントには大変戸惑うわけですが、裏を返せば、それだけ「抜け駆け」に対する社会的な圧力や規範に、我々が強く縛られているということでしょう。「出る杭は打たれる」ということです。

これはまた、日本企業が全般的に退職者に対して冷淡な理由とも符合します。なぜ冷淡なのか? 退職者が、退職後により幸福になったり裕福になったりすると、組織がルサンチマンに侵されるからです。

ニーチェは、その著作を通じて激烈にルサンチマンを攻撃しましたが、それはルサンチマンが人間を向上させるのではなく、むしろ貶めることによって安心感を得させようという心理的圧力として働くからです。その典型例として、日本における格差社会の議論が挙げられます。