※本稿は、ラリー遠田『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の第8章「2007年(平成19年)有吉弘行、品川祐に『おしゃべりクソ野郎』発言」を再編集したものです。
「ひな壇」システムの誕生
2000年代に入り、テレビバラエティの世界では芸人が飽和状態になっていた。90年代半ばには『タモリのSUPERボキャブラ天国』『進め!電波少年』という2つの番組がブームになり、それぞれから多くの若手芸人が輩出された。
だが、その中で冠番組を持つようなポジションまで上り詰められたのはほんの一握りだった。それ以外の芸人はそこまでたどり着けないまま、市場にあふれることになった。
そんな彼らの才能を有効活用するための場所として「ひな壇」というシステムが生み出された。スタジオに階段状のステージを設けて、そこに芸人を座らせて、トークをさせる。多くの芸人が順番に面白いエピソードを話していけば、自然と面白い番組ができる。また、その過程では芸人同士のやり取りで化学反応が起こって新たな笑いが生まれる、というメリットもあった。
ひな壇を世に広めたのが『アメトーーク!』(テレビ朝日系)である。この番組で多くの視聴者はひな壇の楽しみ方を知り、新しい世代の芸人の面白さに目覚めた。ここでは同世代の多くの芸人が火花を散らしていた。その中に2人の対照的なキャリアをたどった芸人がいた。有吉弘行と品川祐である。
ひたすらテレビを観るだけの日々
有吉は猿岩石というコンビで『進め!電波少年』(日本テレビ系)の「ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」という企画に参加した。これがきっかけで大ブレークを果たしたのだが、その後しばらくすると仕事がなくなってしまい、「一発屋」と呼ばれるようになっていた。
鳴かず飛ばずのままコンビは解散し、仕事もほぼゼロになり、絶望的な状況を経験した。毎日毎日ひたすら家にこもってテレビを見るだけ。食事は1日1食、スーパーで安く売られている見切り品を買っていた。
だが、有吉はそこから奇跡的に這い上がった。『内村プロデュース』(テレビ朝日系)に出演して、裸になって暴れるような無茶をする柄の悪いキャラクターを出していった。それらの仕事が業界内で評価されて、『アメトーーク!』にも呼ばれるようになっていた。