左は回収を行わない瓶。主に小売り用に使用される。健康志向へのこだわりが読み取れる。右は回収を前提としたリターナブル用の瓶。

左は回収を行わない瓶。主に小売り用に使用される。健康志向へのこだわりが読み取れる。右は回収を前提としたリターナブル用の瓶。

現社長・石渡光一がまず手がけたのが、工場を創業の地・赤坂から現在の東京都調布市に移転させることだった。69年、日本の高度経済成長がスタート。都心の一等地で工場を操業するのは非効率的だったことに加えて、品質のアップのためにも新工場建設は避けて通れない。郊外にいい水が出て、十分な広さを確保できる場所を探して引っ越すことになる。

「資金繰りは厳しかったですね。確かホッピーも、1日の生産量が1万数千本に落ち込んでいたと思います。そこで、他社の清涼飲料水をOEM生産していたわけです。そちらのほうが日産8万本。苦しい時代でした……」

低迷期の苦境を石渡光一はこう語るが、その間も、ホッピーの売り上げを伸ばそうと仕掛けを試みる。ガラスメーカーと契約を結び、自前の瓶に切り替えた。焦げ茶色のガラスに白抜きのロゴ。これは今も変わらぬ同社の顔だ。同時に、黄色に赤いロゴマークを入れたプラスチックの専用ケースも導入している。

取締役副社長・石渡美奈のアイデアで装飾が施された輸送用トラック。通称「ホピトラ」。装飾の異なる何台ものトラックが街を走る。輸送の途中で人々の目に入り、抜群の宣伝効果をもたらす。

取締役副社長・石渡美奈のアイデアで装飾が施された輸送用トラック。通称「ホピトラ」。装飾の異なる何台ものトラックが街を走る。輸送の途中で人々の目に入り、抜群の宣伝効果をもたらす。

70年代前半、団塊世代の若者が社会に進出してきた。まだ、十分に豊かだったとはいえない彼らが選んだのがホッピーだった。当時は、大ぶりのジョッキに焼酎と氷を入れ、上から冷えたホッピーをなみなみと注ぎ、グイグイ飲んだ。なにしろ、彼らは人数が多い。苦節10年――ホッピーが再び脚光を浴びる。81年に入ると、日産20万本を記録するようになる。直販と闇市時代からの販売店のトラックが調布工場に横付けされ、30本入りのケースを山と積んで出発していく。また、そのケースは居酒屋の暖簾の脇に山のように積まれた。それは、図らずもホッピーを世の中に知らしめる広告媒体となり、大きな宣伝効果をもたらしていく。ホッピーの第二次ブームはこうして訪れた。

この拡大期、その後のホッピーを支える一人の男が入社し、工場に配属された。現在、常務取締役兼調布工場長の加藤木隆である。79年11月のことだ。

「父親が大酒飲み、その反動で私は酒を遠ざけていました。入社して、初めて口にしたホッピーには首をかしげたものです。まず、味が好きになれない。香りもよくない。どうせここで働くなら、これは変えていこうと思いましたね。それで、醸造や食品に関する専門書を読んで、とことん勉強したんです」(文中敬称略)

※肩書きなどすべて雑誌掲載当時

(小原孝博、市来朋久=撮影)