「元号」が制度として残っているのは日本だけ
「元号」を生み出した中国だが、意外にも現在は西暦が公式に使用されている。清の滅亡によって元号は廃止され、1912年には「中華民国元年」とするも、中華人民共和国はこれを採用しなかったためだ。
この点は、いずれ中国国内で問題になるのではないかと感じている。やはり中国には中華思想が歴史的に色濃く残っているのではないだろうか。これからはアメリカをも凌いで中国が世界一の大国になると、勢いに乗りつつある現状では、キリストの生年に由来する西暦を使っていていいのか、中国で生まれた元号を復活させるべきではないのか、といった議論が登場するのは時間の問題ではないだろうか。
元号が中国でも使われなくなった今、これが制度として残っているのは日本だけである。かつてはアジアの国々で広く使われていた元号は、20世紀初めには使われなくなってしまっている。そういった現状を踏まえると、今日、「元号」は日本独自の文化となっていると言えなくもない。
日本で最初の元号は、645年に制定された「大化」である。それ以前は、連載第一回(日本人が「元号」を使い始めた意外な理由)で説明したように中国の元号を使ったり、あるいは干支を使ったりしていたことが考えられている。
たとえば、埼玉県行田市にある稲荷山古墳は5世紀後半の古墳だが、ここから出土した国宝の鉄剣には、「辛亥年(しんがいのとし)」と記されている。「辛亥年」は471年だ。当時は、このような干支を使った書き方が一般的だったことを裏付ける貴重な証拠と言えるだろう。
仏教書に残る「大化」より古い元号
ただ、「大化」以前にも元号があったのではないかという説もある。法隆寺の金堂に伝わる釈迦三尊像の光背に記された銘文には、「法興元卅一年(ほうこうがんさんじゅういちねん)」と記載されている。これは621年にあたり、「大化」以前である。この「法興」を元号だと考える学者もいる。
私はこれは元号ではなく、「法が興(おこ)りて元(から)31年」という意味であると思っている。元には「から」「より」という意味があるため、単なる文章の一節ではないだろうか。
実は鎌倉時代の仏教書には、「大化」より古いとされる元号が複数例登場している。ただ、それらの元号は平安時代以前の史料では一切確認できないもののようである。おそらく、鎌倉仏教が隆盛した時代に、仏教関係者によって造作されたものだろうとみられており、やはり日本で最初の元号は事実上、「大化」で間違いないだろう。
ただ、「大化」に続いて元号が存在したかというと、連続せず飛び飛びになっていることがわかっている。これは実際には、日本の社会では、まだ元号が浸透していなかったということに他ならない。
『日本書紀』では、「大化」後の650年に「白雉(はくち)」、686年に「朱鳥(しゅちょう)」という元号が記載されている。ただ、のちに「白雉」は「白鳳」に、「朱鳥」は「朱雀(すざく)」と表記されることが多く、どちらの元号も実社会ではほとんど通用していなかったのではないだろうか。