スピードと効率重視の生き方は人を幸せにするのか

英国でたっぷりと取材をして帰国した。僕はすぐにそれを本にすることをしなかった。取材で得た材料をしばらくほうっておいた。辞書をつくった人々について書きたいとの気持ちが強くなったのは、日本で新聞の編集業務に追われているときだった。

小倉 孝保『100年かけてやる仕事 ― 中世ラテン語の辞書を編む』(プレジデント社)

新聞社は極端に短期間に答えを出すことを運命付けられた職場である。締め切りが細かく設定され、それを過ぎた情報には価値がない。速いこと、新しいことにこそ意味がある。デジタル社会の今、仕事は秒単位で進む。デジタル版にニュースをアップするのが数分遅れたことが大きな損害につながることもある。

スピード重視、効率最優先、市場原理主義。こうした流れは避けて通れない。それは新聞の編集や制作の現場だけにあるのではない。通信、交通の発達とIT化、グローバル化の流れは社会の隅々にまで及んでいる。そういう世界に身を置きながら、僕には疑問が膨らんでいった。速さを求め、効率化を推進し、市場に評価されることを目標にすることだけが正解なのだろうか。そうした生き方、働き方は果たして人間を幸せにするのだろうか。

時間をかけて作ったものは、さびることがない

確かにスピード社会に対応能力の高い、一部の社会的勝者にとっては刺激にあふれる社会だろう。一方、落ち着いた生活を求める人々にとっては実にストレスの多い社会なのではないか。そうしたことを考えていると僕の頭にはしばしば、イギリスで取材した中世ラテン語辞書プロジェクトの二代目編集長の言葉が浮かんでくるのだ。彼は完成した辞書をラテン語でこう表現している。

「Monumentum aere perennius(モヌメントゥム・アエレ・ペレッニウス)」青銅よりも永遠なる記念碑

時間をかけてつくったものこそ、さびることなく時間に耐える権利を持つという意味である。時間を巻き戻すことはできないが、文化や教養、芸術といった速度や効率、市場原理などで計れないものの価値を見直すことに意味があるように思う。スピード優先、効率重視のいまこそ、経済的利益を度外視し、100年をかけて中世ラテン語辞書をつくった人々の生き方や考え方を知る意味は小さくない。

「神は完成を急がない」

これはサグラダ・ファミリア大聖堂の建設者、アントニオ・ガウディの言葉である。この言葉に倣えば、ラテン語の辞書をつくった人たちは、「神に近づいた人たち」である。僕が中世ラテン語辞書の作成プロジェクトを書きたかった理由は、ラテン語の森をゆっくりと正確に歩いた彼らが見た、その風景を共有したかったからだった。

小倉孝保(おぐら・たかやす)
毎日新聞編集編成局次長
1964年滋賀県長浜市生まれ88年、毎日新聞社入社。カイロ、ニューヨーク両支局長、欧州総局(ロンドン)長、外信部長を経て編集編成局次長。2014年、日本人として初めて英外国特派員協会賞受賞。『柔の恩人』で第18回小学館ノンフィクション大賞、第23回ミズノスポーツライター賞最優秀賞をダブル受賞。
(写真提供=DMLBS 撮影=小倉孝保)
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