「自分が生きているうちに完成しない辞書」を作った人たち

プロジェクトスタート後、古文献から中世ラテン語を採取したのは市民ボランティアたちだった。当時の英国では教員、学者、聖職者、公務員、軍人たち知識人はほぼ例外なくラテン語を読み書きできた。そうした人々が英国学士院からの協力の呼びかけに応じ、地元の教会や役所、裁判所、図書館を訪ね、文献のページをめくっては言葉を集めていった。むろん無報酬である。そうしたボランティアたちによって集められた言葉をラテン語学者たちが編集して完成させたのが今回の辞書だ。

初期にこのプロジェクトに参加した人たちは自分の生きているうちに完成をみることをないことを知っていたはずだ。それなのになぜ彼らは後世の人々のために辞書作成に参加したのか。2度の大戦中も一部の英国人が、中世ラテン語という浮世離れした世界に没頭し、国や社会がそれを許したのはなぜか。そうした疑問に対する答えを探ることで英国人の思考法が見えてくるはずだった。そして、英国人の考え方を知ることで、日本人の姿を見ることができるのではないか。中世ラテン語と辞書づくり。そうしたテーマを通して働き方、生き方について問い直すことができそうな気がした。

「考古学者が遺跡を掘る」ような辞書編集

辞書を作成したのはロンドンに本部を置く英国学士院で、辞書編集に携わった研究者の多くはオックスフォード大学を拠点としていた。私はロンドンとオックスフォードを行き来しながら、辞書に携わった人々を訪ねて回った。

彼らの多くは、ラテン語が話し言葉としては使われなくなった今こそ、しっかりとした辞書をつくる必要があると考えていた。辞書をつくらなければ中世と現代をつなぐことができないとの危機感を共有していた。プロジェクトに参加した動機について、辞書編集者たちはこう説明している。

「中世ラテン語を研究することは欧州の歴史を知的探索することになると思ったんです」
「人類にとって有益なこと、意味あることに携われるチャンスはそれほど多くありません」

ラテン語辞書づくりは生活感とかけ離れた、浮世離れした活動である。編集者たちは辞書づくりに必要なのは「確信を持ちながらも、つねに疑うこと」「考古学者が遺跡を掘るように、辞書編集者はラテン語の森を探索する」と表現した。