芸は刹那である。“上沼恵美子批判”で窮地に陥る芸人がいるように、一瞬のウケを狙うだけの言葉は自身に鋭く返ってくる。一方で、しぶとく生き残っている芸人は、ときに深みのある言葉をぽろりと吐く。田崎健太氏の著書『全身芸人』(太田出版)より、毒舌で人気の芸人・毒蝮三太夫のエピソードを紹介しよう――。

「喋り」こそ、最高の娯楽

82歳の毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)は自分の芸――話すということをこう定義する。

毒蝮三太夫(どくまむし・さんだゆう)氏。

「喋るっていうのは、人間に与えられた最高の娯楽じゃないの? 俺は下町、貧乏人のせがれだからね。金がないから映画館にも行けない。そういう点で喋るというのは大切だったんだ。俺の友だちに遊郭の息子がいたの。女郎屋(じょろうや)の息子。そいつが女郎屋の金をくすねて、浅草に行って鰻(うなぎ)をおごってくれた。俺、おごってくれと言うのは嫌なの。俺におごるといいことあるよって。相手が俺におごった上で感謝する。逆転の発想だよ。そいつが喜んで連れて行ってくれるから、天ぷらでも刺身でも鰻でも食べられた」

毒蝮三太夫こと石井伊吉は1936年3月に大阪市阿倍野で生まれた。一年ほどで一家は品川区中延(なかのぶ)に転居。そこで戦争が始まった。戦後、一家は現在の台東区竜泉に引っ越している。

「浅草のはずれの竜泉寺だよ。竜泉寺といえば樋口一葉の『たけくらべ』だよ。俺の家も一葉が営んでいた雑貨屋のすぐ近くだった。吉原の遊郭の裏だよ」

都電の三ノ輪橋と入谷の中間ほどに当たる。毒蝮はここで9歳から14歳になるまで過ごした。この竜泉寺での生活が、彼の芯ともいえる部分を形づくることになった。

ざっくばらんな下町の言葉

遊び場の中には「お酉さま」と呼んでいた鷲(おおとり)神社があった。境内で野球をしていると、裏の病院に入院している女性が格子のついた窓から話しかけて来たことがあった。

「大きくなったら遊びにおいでって。着物の前をはだけてね。何のことかわからなかったよ」

恐らく遊郭で精神を病んだ女性が入院していたのだろう。母親のひさが営んでいた「たぬき」という甘味喫茶にも遊郭の女性たちが来ていた。

「お女郎さんがよくお汁粉を食べに来ていた。お袋は話し好きだから、よく親身になって話を聞いていた。その頃にはどんな仕事なのか察しはついていたけど、下賎(げせん)な商いだなんて思わなかったよ。生きるために必死だったんだから。上の兄貴とお女郎さんだった女性の結婚も持ち上がったぐらい」

通っていた東泉小学校の同級生は、下駄屋、魚屋、八百屋など自営業の子どもたちばかりだった。

「親が勤め人っていうのはほとんどいなかったね」

界隈の言葉遣いも中延とは違っていた。

「下町の言葉だよ。おばあさん、じゃなくて、ババアってみんな呼ぶ。ざっくばらんだよね」