【田原】そこで魚の勉強はできた?
【右田】店では工場から運ばれてきたネタをシャリ玉に載せるだけでした。こんなことをするためにオーストラリアまで来たわけじゃない。そう悶々としていたときに本部から社長がたまたま店に来たので、「日本で魚屋をしていて、マグロも捌ける。本部で雇ってください」と直訴。それで引き上げてもらって、しばらくは社長のかばん持ちをしていました。
【田原】社長は日本人?
【右田】はい。とても優秀な方で、その下について、店舗を増やす計画を立てたり、マーケティングの手伝いをやったり、サーモンの養殖場やサーモンをフィレにする工場を立ち上げたりしました。いろいろ勉強させてもらって、最後は「メルボルンに支社をつくるから、そこの支社長になれ」とまで言ってくれました。
【田原】断ったの?
【右田】破格の条件でしたが、考えてみると、僕は社長の下でぬるま湯に浸かっていただけ。やっぱり自分の力で何かやりたいと思って、帰国しました。
【田原】さあ、右田さんは帰国して自分の力を試そうとした。まずは何から?
【右田】それがですね、お金を稼ごうと最初にやったのがファックス販売。騙されて、マルチ商法のようなものでした(笑)。それで友達に38万円のファックスを売りまくりました。17人に売ったところで、「右田の電話には出るな」と噂になって、すぐ行き詰まった。じつは渡豪する直前につき合い始めた看護師の彼女がいて、帰国後にできちゃった結婚したのですが、僕が朝起きると、机の上に千円札が置いてある。妻からのお昼代です。自分の力どころか、もう落ちるところまで落ちてしまって。
【田原】そこからどうやって立て直したのですか?
【右田】さすがにこのままではあかんなと、保険の外交員になりました。でも、ファックス販売で友達を食い物にしたやつが保険の勧誘をしてもうまくいくはずがない。しまいには給料が7万円になりました。次はマイラインの飛び込み営業。こちらは完全に歩合制で、最後は給料が3万5000円でした。このときは2人目も生まれていて、まさに貧乏子だくさんです。
【田原】魚の仕事をすればいいのに。
【右田】そうなんです。さんざん迷走したあげく、30歳のときにようやくそう気づきました。ここから巻き返すには水産の仕事しかないと思って、大阪の淀川区で小さな居酒屋を始めました。魚がメインの店で、店員は私と妻、あともう1人の計3人です。
【田原】料理はできたの?
【右田】捌くのは得意でしたから。ただ、料理はよくわからなくて、当時は客席から見えないようにカウンターに料理雑誌を置いて、それを見ながらつくってました。それでもお客様がけっこう来てくれて、売り上げは1日5万~7万円、月で150万円くらい。3人でやる店としては上出来で、ようやくここで人並みに稼げるようになりました。