復活の追い風となった「乳酸菌ブーム」

僧侶だった三島海雲は、日露戦争前の1902年に日本語教師として中国大陸に渡る。その後、旧陸軍に軍馬買い付けを依頼されて、モンゴル高原を広く旅した。そこでカルピスのルーツとなる乳製品と出合う――。それが、カルピス誕生の背景にある伝説的な物語だ。

カルピス創業者の三島海雲。撮影時は28歳のころ。(写真提供=アサヒ飲料)

帰国した三島海雲は試行錯誤の末、1919年に日本初の乳酸菌飲料カルピスを開発した。以来、「美味」「滋養」「安心感」「経済性」という4つの強みを前面に出し、日本人の国民飲料となるまで育て上げる。

1つ目の「美味」については改めて説明するまでもないだろう。牛乳の脂肪を取り除いた脱脂乳を原料としてつくられていたために「滋養」と「安心感」が当時の売り文句となった。また希釈して飲むという「経済性」も消費者に受けた。佐々木さんは言う。

「08年ころから、安心安全で健康に良いというカルピスの原点を、改めて打ち出すようにしたのです」

カルピス復活の追い風となったのが、そのころにはじまった乳酸菌ブームである。ヨーグルトなどの乳製品だけでなく、機能をうたう乳酸菌も登場。またチョコレートやみそ汁も発売され「菌活」「腸活」という言葉も生まれた。近年では発酵食品のおいしさや身体への良さにも注目が高まり、カルピス成長の支えになっている。

「もっと濃いカルピスを飲みたかった」に対応

さらに、アサヒ飲料は30代から40代の男性をターゲットにした商品を相次いで投入する。

16年には、子どものころに「もっと濃いカルピスを飲みたかった」という体験を持つ世代をターゲットにした『濃い目のカルピス』を発売。さらに翌年には体脂肪を減らす機能がある『カラダカルピス』を発売した。

いままでカルピスブランドの主なユーザーは幼い子どもを持つ母親と10代だった。

誰もが子ども時代にカルピスを飲むが、大人になると口にする機会が減ってしまう。成長にあわせて「カルピス離れ」を起こしてしまうのだ。多くの大人はたまに居酒屋でカルピスサワーを注文するくらいになってしまう。

しかしカルピスをノスタルジックな味として記憶する人はたくさんいる。『濃い目のカルピス』と『カラダカルピス』は、そんな潜在的なニーズの掘り起こしに成功した。