「水戸黄門」に見る首尾一貫感覚の要素

首尾一貫感覚を考えるうえで、面白いヒントの1つになるのが『水戸黄門』などの時代劇ドラマです。 主人公の「ご隠居」黄門様は、全国津々浦々を旅しながら庶民の暮らしを見てまわっています。ところが、そんな旅先の村で、人々の平和な暮らしを壊そうとする悪代官などの悪政や悪行を目にすると、その実態を探るべく、ウラ事情をくまなく調査します(把握可能感)。

そのうえで、「助さん」「格さん」「風車の弥七」「うっかり八兵衛」といった「仲間と武器」をフル活用し、悪者たちを力でねじふせます(処理可能感)。その結果、正義が勝って悪は滅び、村に平和をとりもどせる(有意味感)という流れでストーリーがつくられています。

いわゆる勧善懲悪(善事をすすめ、悪事をこらしめる)ものと呼ばれるドラマや芝居のパターンですが、多くの作品が「首尾一貫感覚」の要素を満たすような構成になっていることは、とても興味深いことではないでしょうか。

『水戸黄門』以外にも、『遠山の金さん』や『必殺仕事人』シリーズでは、ウラ事情を調査・把握する方法に独特の工夫が見られます。やり方はさまざまですが、結果的に、視聴者はドラマの主人公と同じ目線で「すべてはだいたい想定の範囲内」と感じられるようになっています。「仕事人」たちの処理可能感は半端なものではない完成度ですし、金さんの締め言葉「これにて一件落着」は、北町奉行の職責を果たし、江戸の平和を守ったことを宣言する大いに“意味のある”言葉です。

また、それと同じように、『ウルトラマン』や『仮面ライダー』といった子ども向けの特撮ヒーローものから、『ドラゴンボール』や『ワンピース』『プリキュア』などの漫画・アニメにも、「把握可能感」「処理可能感」「有意味感」を満たす仕掛けがたくさん盛り込まれています。さらには、ハリウッド映画の中にも、やはり勧善懲悪やヒーローの成長物語が多数あり、同様の指摘ができると思います。

もちろん、これらのドラマや物語は、「首尾一貫感覚」を意識してつくられたわけではないでしょう。それなのに、なぜ「把握可能感」「処理可能感」「有意味感」の要素が作品の中に含まれているのでしょうか。