オープンカー仕様の電動車いすをつくる

【田原】いままでの車いすと、どう違うんですか。

田原総一朗●1934年、滋賀県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、岩波映画製作所入社。東京12チャンネル(現テレビ東京)を経て、77年よりフリーのジャーナリストに。本連載を収録した『起業家のように考える。』(小社刊)ほか、『日本の戦争』など著書多数。

【吉藤】まず、見た目がかっこいい。車いすは長い歴史がありますが、障害者の乗り物だとされてきたから、デザインが洗練されていませんでした。メガネだっておしゃれでかけるのだから、本当は車いすだって健常者が乗って楽しめばいい。だから誰もがうらやましがるオープンカーみたいな車いすをつくろうと。機能的には、傾きを自動で検知してタイヤを上下させ、乗っている人が傾かないようにするスタビライズ機構を搭載しています。

【田原】この車いすは売れたんですか。

【吉藤】残念ながら製品化はできませんでした。当時はどこか大企業にやってほしいと思っていて、自分で売るという発想はありませんでしたね。

【田原】でも、賞をいろいろ取った。

【吉藤】科学技術フェアで文部科学大臣賞をもらって、ISEFという世界大会にも行きました。世界の天才高校生が集まる科学オリンピックのような大会ですが、ここでチーム研究部門の3位になりました。

【田原】そのまま電動車いすの研究を続けた?

【吉藤】帰国したら有名になっていて、全国から「こんなものをつくってくれないか」という要望が来るようになりました。その1つに、広島のおばあちゃんから、ローラーのついた座布団をつくってほしいという話があった。「家のなかで使える車いすがなくて、普段は座布団に乗って娘が引っ張ってくれている。名だたる大企業にも電話で相談したが、どこもお応えできないという返事。藁にもすがる思いであなたに電話した」と言うんです。そのとき、世の中には体が不自由なことで孤独感を持っている人が多いことに気づきました。振り返ると、自分も不登校の3年半は、世の中から必要とされていないんじゃないかという孤独感に苛まれていた。そこから、ロボットで孤独感を解消することが私のテーマになりました。

【田原】高校を卒業して、2006年に高専に編入した。

【吉藤】孤独を解消する手段として、人間以外で自分を必要としてくれる存在をつくれないかと考えました。人工知能なら、それが可能かもしれない。そう思って、近い研究をしている先生に弟子入りしようと香川の高専に行きました。結局、師匠にはなってもらえなかったし、1人で勉強していくうちに人工知能では人を癒やせないという結論に達した。遠回りでしたね。

【田原】なぜ人工知能はダメなの。

【吉藤】たとえば人工知能を搭載した犬型のロボットがいれば、なんとなく癒やされる気はします。ただ、それが本当の癒やしなのかなと考えたんです。不登校だった私が学校や社会に戻れたのは、師匠という人間に出会ったから。人工知能とコミュニケーションすることで社会に戻るモチベーションを得られたかどうかを考えると、私はそれをイメージできませんでした。

【田原】落合陽一は、人工知能はそこまで行くと言っているけどね。

【吉藤】いつかは行きます。すでに初音ミクのライブで人々が熱狂するところまではきているので。ただ、まだキャズム(一般化するまでの隔たり)は越えていないし、12年前はなおさら遠かった。当時は私が人工知能の研究をしても、いまいる人たちを救えないなと。

【田原】なるほど。高専の後は早稲田大学に行く。これはどうしてですか。

【吉藤】孤独の解消の鍵を握るのは人工知能ではないものの、まだテクノロジーには可能性がある。それで当時ロボティクスで有名だった早稲田に進学しました。ただ、これも失敗でしたね。いざ入学して研究室を回ってみたら、私のやりたい研究がない。仕方がないので、自分で「オリィ研究室」をつくりました。